八丁目城跡の魅力って何ですか???②
八丁目城がひょんなことからもらい事故(天文の乱)をした「八丁目城跡の魅力って何ですか???①」からの続き。
漢字の多い情報を追加です。魅力は歴史にあり、でしょうか。歴史上の人物が八丁目城を舞台に大活躍しています。
八丁目城は伊達稙宗(14代当主・伊達政宗の曾祖父)が大森城の支城として築いた。築城年は天文元年(1532)から天文10年(1541)頃といわれている。
群雄割拠の戦国時代、大名たちの謀反や裏切りが多かった不安定な時代のためか、城主が何人も変わっている。
主な城主
(1542)堀越能登守※1(伊達稙宗(14代)の家臣)→天文の乱※2の時は伊達稙宗も在城。
(1549)清野備前守(伊達晴宗(15代)側の人)→土合舘(現在の土合舘公園)に隠居。
(15??)清野遠江守(備前守の子)→伊達氏に謀反
(1570)堀越宗範(堀越能登守?)→伊達氏に謀反。八丁目城は二本松城主の畠山義国の支配下になる。
(1574)伊達実元(伊達稙宗の子・伊達晴宗の弟)畠山義国から城を奪還し再び伊達領へ。八丁目城に隠居。
(1583)伊達成実(伊達実元の子)
(1586)片倉小十郎景綱(伊達政宗(17代)の参謀・大森城主として八丁目城を支配)
廃城は天正18年(1590)。伊達政宗の頃、豊臣秀吉の奥羽仕置※3にて壊されその歴史を終えた。
※1名前の最後の守(かみ)は国司(今でいうところの知事)の役職名。
※2天文の乱:天文11年から17年までの6年間(1542~1548)にあった争乱。伊達稙宗(伊達政宗の曾祖父)と伊達晴宗(伊達政宗の祖父)が政策の違いで争い、周辺の大名を巻き込んで激戦になった。和睦(仲直り)して稙宗が隠居。晴宗が家督を継いだ。
※3奥羽仕置:奥州仕置。豊臣秀吉が戦乱状態だった東北地方の和平のために行った領土処置。仕置とは所領統治全般のことだが、簡単にいうとその名のとおりお仕置きのこと。秀吉に従わない大名は月に代わってお仕置きよ領土を取り上げられた。これで天下統一が完成した。
◎天文の乱~どうして父と子の間で戦(いくさ)になったの?~
伊達稙宗は子だくさんだったため、各地の大名へ子どもたちを養子に出したり政略結婚させたりして支配する(敵の大名家を乗っ取ったり伊達氏に反抗しづらくする)政策で権力を拡大してきました。
ですが、終盤は度が過ぎて長男(晴宗)と家臣たちの反感を抑えきれなくなり戦になったようです。
度が過ぎた例:実元(晴宗の弟)を養子に出す際は伊達家精鋭の最強部隊100人をつけて送り出そうとしたり(→本家の守りがスッカスカで戦になったら負けるなんて本末転倒)、娘婿の相馬顕胤(そうまあきたね)が超お気に入りになり領土をプレゼントしようとする(→大切な領土を敵の大名家に贈るとは正気か?)などなど。
晴宗だけでなく、急激に勢力拡大した稙宗に対して、周辺の大名たちも不満を募らせていたことも背景にあるようです。
戦になるとどの大名も親戚同士の争いになり、当初は稙宗優勢の戦局も大名たちの裏切りや寝返りで晴宗優勢に。裏切り!?なんて、一見ひどい仕打ちのようですが、戦に勝つ側につかないとお家断絶の危機になる厳しい戦国時代ではよくある作戦だったようです。
争乱後はもう伊達氏についていけない、と親戚関係を解消し伊達氏から独立する大名が多くなり、結果伊達氏の勢力を弱める結果となったそうです(諸説あり)。