短編時代小説「二本松城大事出来(だいじしゅったい)」

松川町水原の小説家 丹野 彬(たんの あきら)様の作品「二本松城大事出来(だいじしゅったい)」をご紹介いたします。

丹野 彬 様の作品は、膨大な資料に基づいた時代考証と登場人物の巧みな心理描写をもとに壮大な世界観を紡ぎだします。ぜひご覧ください。

 小説家 丹野 彬 作品集

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短編時代小説 
二本松城大事出来(だいじしゅったい)
丹野 彬

     一

信夫郡水原村の豪農加藤徳兵衛の屋敷に眼意足の具わった侍が訪ねた。当主徳兵衛は、作男からようすを聞いて仔細ありげな表情をした。
「もしや、二本松城の御役人様ではあるまいか」
屋敷の北側の土蔵には、二本松藩元勘定方村上文之輔親子が逼塞している。文之輔は村寺からの依頼で経文を筆写しているし、子息の兵馬は屋敷の下働きで、昼下がりから気合を入れて木割りをしている。
「文之輔様と、それから兵馬様にも知らせなさい」
徳兵衛は声を落して作男をうながした。
加藤徳兵衛は地主と村役をかねていた。たどれば奥州平泉の藤原の末裔といわれる家柄で、奥州二本松藩より味噌、醤油の醸造を許されて富を築いてきた。母屋の周りには幾重にも蔵が建ち、あまたの作男を抱えている。  
徳兵衛が腰を低く出迎えると、侍は二本松藩根来傳右衛門と名乗った。根来傳右衛門といえば、二本松藩勘定奉行でありながら、城下には根来流武術道場を構え、藩主の武術指南役でもあると、人づてに聞いていた。徳兵衛には臆する色もなかった。二本松藩には醸造の儲け相応の金銭を用立てているし、勘定方のなかには顔見知りもいる。だが、勘定奉行とは初めての体面である。徳兵衛はこころもち身を引き締めた。
「村上文之輔殿が、厄介になっておるとか」
傳右衛門はさげてきた風呂敷包みを左手に持ち替えた。
村上父子は土蔵を造作して起居していた。二本松藩上座家老丹羽貴明の逆鱗に触れて辛酸を嘗めているのである。
徳兵衛が傳右衛門を母屋に招こうとすると、文之輔がみずから姿を現した。文之輔は相好を崩して傳右衛門を迎えるが、徳兵衛には遠慮深げだった。
「御奉行は、わしの住まいにおいで願いたい」
「さようでございますか。御用をうけたまわります。何なりとお申し付けください」
徳兵衛は女賄人に何やら指図したようだ。

屋敷の裏側は陽の翳りがはやく、井戸端の竹棚あたりに淀んだ余光で、研ぎ立てた鎌先や鍬先が鈍く光っている。村上文之輔は農民衆と語らうことがあるのであろうか、傳右衛門は口籠もって、詳細を訊ねはしなかった。
低い天井、狭い土間には七輪と水甕。莚敷きに火鉢が据えられて、煤けた衝立がふた間に仕切っている。傳右衛門はあまりの暗さに瞬きをした。
「息災であったか。兵馬は達者かのう」
傳右衛門が内の階段あたりを見回したが、それらしきは見えなかった。
「兵馬は元気がとりえでござります」
文之輔は火鉢の前に正座して、物静かな仕種で火鉢の灰を掻いて炭火を熾し、微かな笑みを浮かべた。城勤を退いて、ずいぶんと角が取れたような気がした。
外に声が立ち、かつて根来道場の門下生の兵馬が駆け込んできた。傳右衛門を見るなり、先生、と言って土間に膝をついた。これが、城下を去るときに、泣きべそをかいた兵馬かと思う。
「逞しゅうなって、見違えてしもうたぞ。城下の饅頭だ」
傳右衛門は文之輔の膝元に包みを差し出した。
二本松藩には饅頭奉行がいるほど、饅頭は有名だった。今の暮らしぶりでは、めったに口に出来るものではなかろう。贅沢品である。
「兵馬には、饅頭より酒がよかったのではないか」
傳右衛門は笑った。とっくに兵馬を値踏みしている。
「いやいや、まだ若輩でござる。饅頭とはありがたいことじゃ」
謙遜しながらも、文之輔には自慢の息子らしかった。
雌伏して御赦免を待っているのであろう。傳右衛門は、御城の御用部屋会議を思い出して、膝の上の拳を震わせた。

文政三年(一八二○)丹羽貴明は、奥羽二本松藩上座家老に任命されると、『藩政政務改革覚』を掲げて執政に牛耳を執った。町人地の本町、松岡あたりを郭内と称し、妓楼がつぎつぎと建ち並んだ。昨今は芝居小屋も組み立てられて、まさしく上座家老の政策が成功した。遊郭通いや芝居見物の遊興を奨励すべし、と郡部の農民までも駆り立てていた。
その繁昌とは裏腹に、巳年、申年の天候不順の凶作が祟り、藩の財政も窮地に追い込まれていたところに、幕府から、江戸の堀普請の達しが届いた。勘定方は資金繰りに四苦八苦である。年貢の先細りを危惧して、勘定奉行傳右衛門と勘定衆、有識者たちが揃って上座家老に『藩政政務改革覚』の見直しを進言した。
二本松藩十万石の二本松城は、平屋の屋敷が並び、藩士は御城を御殿と呼んでいた。御城の一角の大書院が御用部屋に充てられている。
御用部屋会議はただならぬ雰囲気だった。
「領民が勤勉に励めば、おのずと藩は繁栄するもの。されど、領民が遊郭などに出入りして、始末屋に借銭をつもらせる者もあり、疫病で身を落す者ありと、治安が乱れております。どうかお心違いをなさらぬように」
「勘定衆が手分けして豪商や豪農に金策に走っておりますが、もう借りつくしました。また、藩金を高利で貸そうとしましたところ、借りる者はおらぬどころか、悪態をつく始末」
御用部屋で上座家老を強く諌めたのが、勘定奉行の根来傳右衛門、儒学者鈴木堯民、勘定方。
二本松藩江戸屋敷勤務のある勘定方の村上文之輔などは、
「恐れながら申し上げます。農民たちは累年の凶作から立ち直れず、年貢の取り立てもすでに限界です。いずれ、藩の財政が疲弊のどん底に落ちるのは明らかで、江戸の繁昌とは違うてござります」
上座家老をひたと見据えた。
「たわけ」
上座家老の顔色が失せた。腰を浮かすと、扇子の先で文之輔の面を指した。
「その方、いま何と申した。遊郭の規模拡大は江戸繁昌の猿真似と申すのか。冥加金、年貢の増収と藩の利を得る政を行うのが上座家老の務めぞ」
上座家老は、厳しい眼光を文之輔に放った。
たかが一介の勘定方のくせして、でしゃばった口の利きよう。上座家老はこう取ったらしい。一瞬、御用部屋に戦慄が走った。
「よく聞かれよ。凶作の年には、倉を建てて越後米三千俵を購入して、米価の安定を支えたではないか。不足ならまた仕入れる心算じゃ。それに大手御門の改修、道路の補修、数えたら切りが無いほどの業績、何が不足で物申す」
上座家老は鷹揚に身体を揺すって居住まいを正した。先ほど文之輔に放った険しい面を拭い、口許にはかすかな笑みさえ浮かべた。
「しからば、殿に言上致すので、しばらく待たれよ」
二本松藩主長富は何分にも十七歳。実際は上座家老の掌中にあった。
上座家老の笑みは、会議の緊張を和らげた。笑みなどを浮かべて御用部屋を下がる勘定衆もいた。しかし、上座家老は、鈴木啓蔵、三浦権太夫、そして藩の重臣、丹羽見山の面前で、いっとき取り繕うたにすぎなかった。

その後、文之輔は謀反の兆しありと、禄を取り上げられて逼塞。徳兵衛の土蔵に身を寄せた。不作の年に、文之輔は農民に手心を加えてくれたし、このたびは農民の救済を進言したとの事情を知り、徳兵衛の配慮だった。
母屋の女賄いが徳利と肴を運んできた。戻り掛けの女賄いを呼び止めて、文之輔は土産包みを持たせた。
「城下の饅頭だそうだ、母屋でもいただいてくだされ」
「あら、珍しいこと。こちらさまの分は、のちほどお持ちしましょう」
女賄いがにこり笑うて姿を消すと、傳右衛門と文之輔は、お互いに徳利を傾けて、わずかばかりの酒を酌み交わした。
「香の物もほどよく塩が効いて、やはり地の物にはかなわぬな」
「樽仕込みには年季が入っておりますゆえ」
「なるほど。年月が経って、文之輔殿も塩が浸みてしもうたか」
「まさしく、そのとおりでござる」
二人は声高に機嫌がよかった。
「ところで……」
傳右衛門は杯を伏せた。
「収穫時期を目前にして、年貢の取り立てに不満をもつ農民に、不穏の動きがあるとの噂が流れておる。関わりがあるのなら十分に気をつけられよ」
文之輔は困惑したようすだ。
「村寺の依頼で、経文などを筆写しております。あの木箱の上や中身がその物で、表具の方法などもすこしは慣れました」
 板壁際の重厚な木箱の上には、古物や新物の巻物、折本などが重なっている。
「これを農民一揆の扇動と疑いますのか」
文之輔は深く溜め息をついた。
行灯に灯りをともして、正座して聞いていた兵馬が口を挟んだ。
「恐れ入りますが、そのことは父上に関わりはござりませぬ。それが謀叛なら、謀叛人はそれがしです。それがしは神社の境内で、農民衆に剣術を教えています。凶作が続いても年貢の取立てに変わりなく、天候不順は農民衆の責任とでも言うのですか。年貢に威され、飢えに苦しみ、農民衆は赤い涙を流しております。智恵をつけておるのは、この兵馬です、先生の訪いは、このことでございましたか」
力強い物言いだった。
傳右衛門は、一瞬、驚きの表情を見せたが、
「この迫力のある物言いは、まさに父親ゆずりの気性で好ましい」
たちまち拭い去って、笑顔をみせた。
「兵馬、口が過ぎるぞ。わしら父子が迂闊にも失態を仕出かしたとすれば、殿に申し訳がたたぬではないか」
傳右衛門は、文之輔をたしなめるように手を振った。
「言い触らしじゃ。わしら勘定衆が上座家老執政に賛同せぬうちは、文之輔殿を見せしめにするつもりじゃ。そのほかにも、幾人かが難癖つけられて禄を取り上げられておる」
「心配御無用にござります。米や味噌、青菜など、すべて農民衆に援けられて、すっかり情にもろくなり申した」
文之輔は澄んだ目をしていた。
「上座家老は遊郭からの賄賂で、棒禄も五百石からすでに二千石に加増されておる。それでも足りぬと暴利をむさぼり、上座家老屋敷などまるで御殿のような構えではないか。私腹を肥やすのだけは、何としても瀬切らねばならぬ。それに、大手御門の普請、竹田坂の改修は、幕府の許可の下りぬまま、完成が早まっておるのだ」
火鉢の炭火と酒が傳右衛門の面を赤銅色に染めた。
「上座家老の傲慢は、幕府まで騙すつもりですか。みだりに城普請を行ったかどで、改易の憂き目にあった藩もござる。二本松藩とて例外は有り得ませぬ」
文之輔が城の方角を睨みあげた。
「文之輔殿を上座家老の餌食にさせるものか。いずれ殿に申し上げて、赦しを請うつもりじゃ。それまでとは言わぬが、兵馬をわしの手元で修業させたいがどうじゃろう」
せめて、文之輔の面目だけでも保ってやりたいと、傳右衛門は思っている。
「御奉行は殿の武術指南役、殿は一目置いているはず。それを伝手に一縷の望みを掛けるなど、隠遁者としては有るまじき姿。せっかくの好意ですが、わしは気がすすみませぬ」
相変わらずの一本気に変わりはなさそうだ。文之輔は面を伏せてしまった。
「村上家を旧に復す。兵馬、それが武士の意地じゃぞ」
傳右衛門が兵馬を見た。村上家の再興。兵馬の心が躍ったようだ。このまま兵馬を百姓に下げるのは、不憫でならない。
兵馬は父の顔を見詰める。父親は子の心中を読み取ったらしい。
「それでは一言申しておく。二本松藩士として、質実剛健を以って旨とす。心中にしっかり留めておくのだ。それから、今後は傳右衛門殿を父上と思って仕え、義理を欠いてはならぬ。大成するまで、わしのところに戻らぬ覚悟で参られよ」
言い切った。
「はい、二本松藩士となって、必ず父上をお迎えに参ります」
兵馬は父の膝元に膝行した。
「案ずることはないぞ、文之輔殿」
傳右衛門は、首を縦にふって、少々胸を張った。
高窓は暗くなっている。外の気配を感じながら、そろそろといって、傳右衛門は兵馬を促した。
兵馬は風呂敷にわずかな衣類を包みこんで肩がけにした。
「それでは、御奉行、不束者をよろしゅうお頼み申します」
文之輔は正座したままで、家を出る兵馬を見送りはなかった。
兵馬は大成して戻る考えであろうから、父親の意中など知る由もなく、勇んで傳右衛門に従っている。
 
村境に来ると、十四日の月光が雑木林に差し込んだ。傳右衛門が立て膝になり草鞋の紐を結び直して声を潜めた。
「よいか、振り向いてはならぬぞ。黙って用心しておけ」
兵馬が聞耳を立てると、何者かが付かず離れずついて来る気配がする。夜気がひんやりと兵馬のうなじを舐めた。
「この坂を上れば原っぱになる。どうやら、そのあたりが奴らの狙いであろう」
「かっぱらいですか」
「そうではなかろう。最近、相馬藩を脱藩した藤田三郎兵衛という剣客を上座家老が雇ったそうだ。黒装束は三郎兵衛の手下で、標的はわしであろう」
傳右衛門は駆け出している。足は速かった。追う兵馬の息は切れぎれになっている。坂の上は予想通りの原っぱで、背丈ほどに伸びた芒の穂が、月に照らされて蒼白い。微かに揺れるさまは白い獣のように見えた。緊迫した空気に、兵馬は耐えられないようすだ。後ろの殺気が首に絡んで、思わず振り向いてしまった。これが合図のように、黒装束が猪の勢いで走り込んできた。
「良い機会だ。わしが黒装束を退治してみせよう。兵馬は離れろ。わしが連中に当て技を決める。その瞬時、わしの腕、肘、腰、足の動きをよく見取るのだ」
傳右衛門はつかつかと黒装束に歩み寄った。
「何事でござる」
黒装束は無言でじりじりと傳右衛門を追い込んでくる。一瞬、喝。傳右衛門が夜気を揺るがす気合を発して身をひるがえした。瞬時に、相手の肋骨を突き、次に飛び跳ねて指先で眼球を射止めた。次の相手の腕を逆手にとり突き放す。何という俊敏な身のこなし、まるで、ましらのごときではないか。
怯えて座り込む連中を傳右衛門は一瞥し、何事もなかったように歩きだした。傳右衛門は二本松藩で武術に匹敵の者なしと、謳われている。まさにそのとおりで、賊を相手に、道場では伝授できない根来流の秘伝であろう。兵馬の背中には冷や汗が流れていた。

     二

根来屋敷の門の内側に設えた四畳半の門衛番小屋。板壁に押し入れがあり、外壁には来客を確認する無双窓がついている。ここが兵馬に与えられた部屋だった。
兵馬はふっと目を覚ました。風が出てきたようだ。いや、風の音にまじり表通りの地を引くような足音は只事ではない。兵馬は起床して帯刀した。庭伝いに傳右衛門の寝所の縁先に膝をつくと、傳右衛門の張り詰めた声がする。
「登城する、準備せよ」
兵馬は、傳右衛門に従い屋敷をでた。
夜明けにはまだ早く、朝霞に蔽われた御殿を目指して人影が急いでいる。兵馬は一瞬ぎょっとした。頬被りをきりりと結び、目を光らせた黒影は農民衆ではないか。年貢の取り立てに不満をもつ農民に不穏の動きがあるとの噂はこのことであったのか。
傳右衛門が歩度を速めた。
大手御門には、すでに二本松藩役人が両手を広げて群集の前に立ちはだかっている。鋭い眼光を放った黒影は数百人を超えるであろう。聞くと、本町あたりにも農民が群れているらしい。城下には農民衆のざわめきが不気味に流れていた。
長雨による不作を知りながら年貢に手心が無かった。二本松領の年貢に比較すると、幕領川又代官所の年貢は嵩高らしい。代官所管轄の農民の姿もある。来春に植える種籾半分までも摂取したらしく、潰れ農家が続出している。
農民衆は『夫食願』と墨書きしたむしろ旗を掲げた。お願い申します。声は潮のうねりのように揚がった。
「このように、大勢で押しかけるのを農民一揆と言うのだ。これが幕府に知れたら、二本松藩の根幹を揺るがすことになる。大それた事をしでかすではないぞ」
傳右衛門は、農民衆の面前に仁王立ちして声高に叱咤した。しかし、農民の代表らしきは怯まなかった。
「お願い申します」
毅然たる態度で訴訟した。
「皆の衆の嘆願は十分に心得ておる。じゃが、大勢で押しかけるのは御法度だ。『夫食願』は聞き届けてつかわすので、今夜は代表の者を残して、直ちに引き上げなされ」
傳右衛門は兵馬に向った。
「よいか、騒動を大事にしてはならぬ」
「御意に従います」
兵馬が農民衆の前に出た。農民の実態は身を以って知り尽くしている。話し合いで穏便に解決したいと思った。
「これは、村上兵馬様ではねえですか。どうか、口添えをお願いいたしやす」
代官所領の農民らしきが、兵馬の袖を引いた。
「もちろん、そのつもりです」
兵馬が農民衆の中に入った。
農民衆は禁制を破っているのは十分心得ているはずだ、命懸けの行動であろう。農民衆をここまで苦しめるのは、天か、上座家老か、勘定衆か、兵馬は政の難しさを考えた。すでに、東空が白み始めている。農民衆が相談した。やがて、各村落の代表を残して農民衆は潮が引くごとく城下を去った。
農民代表は縄を打たれた。重い足取りで竹田坂にある奉行所に連行された。兵馬も証人として奉行所に出頭したはずが、思いもよらぬ罪人扱いにされて、農民たちとは別棟に投獄された。

恐ろしく雨が木々の枝を叩いた。横殴りの風が木々の枝を鳴かせた。兵馬は日々の替わりを牢屋の中で怯えた。すでにひと月が過ぎている。
「兵馬、おまえはこのたびの農民騒動の首謀者らしいが、吟味はしばらくかかるであろう」
退屈している牢屋役人が牢格子に顔を近づけてにたりとした。
罪状は農民騒動の首謀者らしいが、奉行所の吟味はまだ一度もない。伸びた髭が削げた頬を隠している。すでに、霜降る季節になって夜中の寒さは堪えた。
「おぬし、ずいぶん様相が変わったな。さっさと白状したほうが身のためだぞ」
牢屋役人など相手にするものか。裁きは奉行所の吟味役がするものだ。
「農民騒動の百姓の首謀者たちは、百叩きの罰をうけて、処払いになったようだぞ。ざまあ見ろ」
薄笑いを浮かべて兵馬をからかう。
「天罰しらぬ獄卒め」
兵馬が睨み返す。
己には裁きがなく無実を晴らす機会がない。このまま死に瀕すのか。不審の念を抱くと憎しみがこみあげる。一日一食の牢飯も、吐き気がして飲み込めない。どこからか暖かい風が頬を撫ぜた気がした。まるで春風のようだ。兵馬は牢の板壁によりかかって目を閉じた。このまま深い眠りに襲われ、闇の底に沈んでしまいそうだ。
「兵馬、兵馬。起きろ、起きるのだ」
強く頬を叩かれて、兵馬は現にかえった。目前に傳右衛門の面がある。
「正気を取り戻したか、赦免だ、御赦免になったぞ。さあ、起きろ、帰るのだ」
兵馬は足腰の力が抜けて立てなかった。
「酷いことをするものだ。おい、物見じゃないぞ、手伝ってやらぬか」
傳右衛門の指図で、牢屋役人たちは兵馬の手足を支えて牢屋を出た。

根来屋敷の門衛番小屋に横たわり、三日が経った。兵馬の体調も幾分快復したようだが、まだ辛い。夜が更けたころ、傳右衛門が手箱を抱いて入ってきた。悲痛な面で床に正座した。
「体調は快復したか。水原村の徳兵衛が言うには、兵馬が投獄されて、文之輔殿はたいそう気に病んだそうだ」
傳右衛門の声が湿っている。
兵馬は布団を除けて床に正座した。まだ、ふらつきは拭いない。
「文之輔殿が御逝去なされた」
「えっ、父上が……」
「藩への届けは、病死だそうだ」
「病死、まさか……」
「そのまさかじゃ。気を確かに持つのだ。みごとな最期であったそうだ」
傳右衛門から手箱を受け取るとき、傳右衛門の手の震えを感じた。
「文之輔殿の遺言じゃ」
手箱から油紙に包まれた書簡を取り出して封を切ると、
――死をもって信を守るほかない――
どういうことだ、父上の身に何があった。信じることができぬ、信じられない文言だ。
「文之輔殿は死を粗末にしたのではないぞ。いつまでも申し開きのできない蟄居生活。このまま服罪しておれば、いずれ文之輔殿は処刑、食禄は没収、士籍は削られて、村上家は断絶となるのが目に見えている。それより、自刃して、病死の届けをすれば、処刑がまぬかれるばかりか、村上家も存続になる。このたびは文之輔殿が死することで、村上家の罪咎が免れたのじゃ」
「父は、村上家のために、いや、己の無実を晴らすために、自刃をしたのではないですか」
「いや、そればかりではあるまい。今度の農民騒動では、文之輔殿を首謀者に祭り上げて、事を穏便に納めようと企む奸人がおったのだ。しかし、文之輔殿にはそのような反逆心はなく、死して殿に信を申し上げたのじゃ」
 傳右衛門は顔をゆがめて、涙を堪えているようだった。
兵馬は傳右衛門から目を逸らして涙を隠した。身も世もあらず、地獄とは現世のことなのであろう。
     
     三

二本松城下の町人地、本町や松岡あたりを松岡遊郭と呼び、ひときわ贅を尽くした妓楼が建ち並んだ。いつもながら、日が翳りはじめると、張見世の格子の広間に着飾った遊女たちが居並ぶ。ここは先代からの遊郭ではない。上座家老丹羽貴明が出仕したあたりから俄かにできた遊郭だった。
文政七年七月に安達太良山中腹、岳の温泉の遊里に湯崩れが起こって、遊女たちの死者数百人という前代未聞の惨事が起こった。十月には二度の湯崩れが起こって、六十数人の死者と怪我人を出した。それでも上座家老は諦めきれずに、町人地に遊郭を造ったのである。
町人地の椚橋近くの本町見附あたりは、舞台小屋が組み建てられて、葺き籠りもすでに終えていた。江戸歌舞伎役者の坂東三津五郎や岩井粂三郎らの一座を招き、すでに顔見世興行もすんでいる。箕輪山から吹き降ろす風に色褪せた幟が靡いていた。
根来傳右衛門は、根来道場の門下生を徒士組に推して、城下の治安を護らせ、村上兵馬もその輩である。兵馬は警戒のために遊郭あたりを見廻るとき、いつも気に掛かる娘がいた。それは、亡父文之輔が城勤のころのことである。
文之輔と茶人の朝倉英斎は、非番になると碁を打って楽しんだ。力量の釣り合った相手で碁敵らしかった。英斎には器量のよい姉妹がいて妹の名は菊と言う。英斎が碁打ちに来るときは必ず一緒だった。
兵馬は幼いころに母を亡くして、父の文之輔と二人住いだったので、家事はトメという賄婆を雇っていた。兵馬が幼少のころからで、かれこれ十年間、通いつづけている。菊はトメと茶を淹れたり、夕餉の支度をしたりして過ごしている。碁打ちが終えると、英斎と連れ立って帰ってゆく。菊としては男家族への思いやりのつもりだろうが、菊様は兵馬様の嫁になるつもりだろうと、トメは、いつもそういって兵馬をからかった。そんなとき、兵馬は赤面して胸の高鳴りを覚えたものだった。兵馬が水原村に逼塞してからは、すっかり疎遠になっている。
妓楼で芸妓に躾を教えているのが菊らしい。根来道場で噂になっていた。しかし、武家娘が遊郭で芸妓の躾をするなど前代未聞の珍事だ。上座家老は文之輔と英斎の仲を疑ったのだろう、嫌がらせは根が深く、菊が断れば朝倉家の禄の取り上げはありうることだった。

この日、兵馬は遊郭の妓楼松乃屋のあたりに足を運んだ。張見世の格子に擦りより、遊女たちが流し目を使う。妓楼で遊ぶゆとりはないが、いつしか遊女たちに親しみを抱くようになっていた。松乃屋の門前にくると、ぽつねんと汚れた身なりの白髪の老浪人が立っている。どことなく物慣れしたようすだった。
小僧にでも知らされたのだろう、松乃屋の大番頭が習わし顔で出てきた。またも来寄ったかと言うような、意地の悪い顔付きをした。
郡部は貧困に喘いでも、遊郭は別物である。毎夜、熊手で掃き集めるように金銭が溜まる。そこで小銭目当ての集りが後を絶たない。小銭を握らせて、蝿のように追い払うのが遊郭の常だった。
「一見さんは、ご遠慮願っております」
大番頭がにべもなく断った。
「わしを集りとでも見まちごうたか」
老浪人が高飛車に言い、労咳のような咳を吐いた。
「決して、そのような御無礼は申しません」
大番頭は懐から巾着をとりだして、巾着のなかで小銭を数えると、もぐもぐ言って小銭を摘み出した。
小銭を見て取った老浪人は、不服な面をして大番頭に身を寄せて怖じ怖じしい。
「すまぬ、もう少しいただけまいか」
「なんですと、性懲りもなく」
大番頭の面が豹変した。含み笑いを浮かべて、巾着を懐にしまいこんだ。
「実を申しますと、遊郭など表向きは華やかなんでございますがね。女たちが身を粉にして働いておるのでございます。まだ、足りないとは、厚かましいことを言いなさいましたね」
周りを暇人が取り巻いている。老浪人は面目が立たぬのだろう、口元を歪ませた。
「無礼であろう。老人と見て侮ったか」
老浪人が大番頭の胸を力任せに突き飛ばした。意外にも細い身体に似ぬ底力を持っていた。
大番頭は両手を宙に泳がせながら水桶に背中を打って尻餅を搗いた。老浪人が大刀の鯉口を切った。やくざの切った張ったは普段のことだが、侍が刀に手を掛けるとは、物騒な世の中になったものだ。兵馬は成り行きを見守っていた。
老浪人はますます興奮したふうだ。肩を怒らせて一太刀浴びせねば気が治まらぬ勢いだ。
「お許しください。命ばかりはお助けを……」
咄嗟に、大番頭は巾着を丸ごと摘み出して命乞いをした。
やれ、やっちまえ。妓楼の繁昌を妬む野次馬がさかんに囃した。老浪人は周囲の手前、刀を納める時機を失ったようだ。兵馬が歩み寄ると、老浪人は恥を感じたか、逃げ腰になった。
「御老人、お待ちください。遠慮せずにいただきなさい」
老浪人は首を捻って兵馬を見た。お主は……。気に留めたようだが、元勘定方村上文之輔の息子とは気づかなかったようだ。許せ、俊敏に巾着をつかんで、脱兎のごとく姿を消した。
この老浪人には見覚えがあった。白い無精髭が面を覆い定かでないが、二本松藩の勘定衆、吉田庄左衛門殿。上座家老、偽善の犠牲者に相違ない。
大番頭は、手の甲で額の汗を拭い、掌で尻の土埃をはらった。
「兵馬様は命の恩人でございます。妓楼の繁昌を妬んで、あのような得体の知れない連中が集りに来るのでございますよ」
「道楽者が落とした泡銭ではないか。快く恵んでやったらどうだ」
いつのまに現れたか、松乃屋の女主人お久が、つるりとした面の一皮目を剥いて、様子見をしていた。
「それより兵馬様。先ほど言われました泡銭とは、何のことでございましょう。妓楼の仕事は昼も夜もなく、年中働きずくめで寝る間もないのでございますよ」
流暢な物言いだった。
「遊郭に金銭が集まれば、郡部あたりが金銭不足になる。飢えに苦しむ者が大勢おることを忘れぬことだな」
偶然の出くわせに、任務を全うしたまでのこと、長居は無用。立ち去ろうとして、兵馬は一瞬、どきりとした。人混みのなかに菊の姿を見たのだ。菊は人知れず妓楼のなかに姿を消した。
お久は、肥えた身体を兵馬に摺り寄せた。
「このまま去られては、松乃屋の気持ちが治まりません。どうか、お上がりになってくださいましな」
借りは利子が嵩むとでも松乃屋が思えそうなことだ。しかし、武士が庶民と同座で酒を飲み交わすなど卑しい行為だ。だが、確かにあれは菊だ。兵馬の心がゆれた。松野屋に菊がいると思うとこのまま帰れぬ思いが先立った。
お久が耳元に口を寄せた。白粉の臭いが鼻を衝く。
「長居とは申しません。帳場で一献いかがです」
絡みつくような粘りがあった。
「これ、大番頭さん。兵馬様をご案内してさしあげて」
いつしか、お久の顔には険が含み、大番頭の手は兵馬の腕に蔦のように絡んでいた。

松乃屋の造作には目を見張るものがあった。太い柱、欄間、戸、障子の桟には巧みの技が施してある。奥の暖簾を割ると、帳場の造作もまた凝った造りで、箪笥まで漆塗りの贅をつくしてある。
大番頭が帳場の上がり框に座布団を敷いた。兵馬は腰を下ろしたが、草履は脱ぐまでもない。
この時刻、松乃屋は旅人や遊び人が入れかわり立ちかわり、見送る遊女、招く遊女が色とりどりで艶かしい。裏手には賄い女たちが忙しなく立ち働いている。菊の姿は見えなかった。影踏むばかりの近くにいるのは確かに思える。
「これは、根来道場の御仁じゃござらんか」
突如、見慣れぬ侍が姿を現して、思わず兵馬は腰を上げた。
「松乃屋が世話になったそうだな」
根来傳右衛門は遊郭に懸念を抱いている。己がこのような妓楼で怠けておっては師に面目が立たぬ、ここは場違いのところだった。
いつの間にか、お久が侍と肩を並べている。
「二階の座敷に連れて参れ」
侍は顎を杓った。
「御案内いたしますとも。松乃屋だって、お帰りになられては根来様に、顔向けができませんもの」
しまった、謀られたか。少々、己の腕を過信したのが禍を招いた。すでに、入り口や裏口は得体の知れない連中に立ち塞がれて、逃げ場は失っていた。そうか、それでは騙されてみようじゃないか。父上を死に追いやった連中が、座敷におるらしい。確かめてやろう、兵馬は階上を睨みあげた。
二階の奥座敷では床の間を背に、眉太に大きい目の御仁が芸妓をはべらせていた。側席の酔眼は、まだたりぬようすで、芸妓の鼻先に杯を突き出している。金屏風を背に芸妓が扇子をたたんで踊り終え、三味線の撥音がひときは高く鳴って、締めくくったところだった。
お久は、兵馬を末席に案内して耳打ちをした。
「郡代役の丹羽四郎右衛門様でございます。御城代も兼ねておられますのよ」
兵馬は驚愕した。
郡代丹羽四郎右衛門は遊郭から賄賂を無心し、上座家老の懐が肥えていると、傳右衛門が嘆いている。まさにその場に触れた気がした。松乃屋、何を企んで己を連れ込んだ。
丹羽四郎右衛門、そして組み敷き役人。遊郭を意のままに操る獣連中が嗜食の最中だった。
巷では、遊郭の金満者を、蛇の越後屋とか、狢の近江屋とか、陰口を叩いている。松乃屋もその同類で狐の松乃屋と呼ばれている。遊郭を取り締まる役人らに諂って底知れぬ連中だ。
お久に押されて、兵馬は四郎右衛門の前に出された。
「根来殿の家来と知って、わしが呼んだのじゃ」
四郎右衛門は意味ありげに口許に笑みを浮かべた。
「融通の利かない根来殿に、上座御家老はほとほと困っておる。それに近頃の根来殿ときたら、上座御家老に顔も見せぬそうではないか。すこしばかり腕が立つのを鼻に掛けて逆らうてばかり。いつまで勘定衆を惑わすつもりか」
「何を申されます。邪推も甚だしい。先生は藩の財政のやりくりに四苦八苦なのです。ここでは農民衆の貧困など、わかりはしまい」
「年貢の落ち込みは、勘定奉行の怠慢であろう。まあ、そんなこと、どうでもよい。飲んで、食べて、浮かれて、人生一度じゃ、近こう寄れ、近こう寄らぬかと申しておるに」
兵馬は、四郎右衛門の前に平伏した。四郎右衛門は立膝になると、肥えた腹の帯の間から扇子をとりだして、兵馬の月代をぴしゃりと叩いた。
「何をなされる」
兵馬は怯まなかった。
「勝手な振る舞いは許さぬ。傳右衛門とて同じことよ」
四郎右衛門の言い分はこのことか。上座家老はこの四郎右衛門を意のままに操り、傲慢な態度も見ぬ振りをしているのだろう。このまま引き下がるものか。兵馬は四郎右衛門をきっと睨め付けた。
慌てたお久が、四郎右衛門に寄り添い、膝を崩して銚子
を傾ける。しなやかな指先には芸妓を凌ぐ色香が漂い、四郎右衛門の酒肴の好みを知り尽くしているようだ。四郎右衛門の機嫌の頃合を計って言った。
「十人ぐらい増やして下さいましな」
「よしよし。なに、十人とは多すぎやしないか」
妓楼には遊女の人数が定められている。遊女を増やした
いとの強請りだろう。四郎右衛門は兵馬のことなどすっかり忘れたように、お久の酒を口に運んだ。すべて金子であろう、計算高い獣たちだった。
先刻までは、三味線の音色で芸妓が踊った。何れの芸妓も変り映えがなく、飽食にも飽きがくるものだろう。お久は座を取り持つのに懸命だ。
「田舎芸妓め」
四郎右衛門が芸妓を睨め回した。
「それでは珍芸を披露しましょう」
お久は、四郎右衛門の面を覗き込み、膝を正してから手を叩いた。すると、金屏風の脇から、ひょいと、ひょっとこが姿を現した。とん、と床を蹴って、七福神の布袋が糸切れ奴凧のように、おっ、とっ、とっ、と……。金屏風の真ん中に躍り出た。両足を床に踏ん張り、片肌を脱いて、伸べた両掌を外側に向けると、
「よぉー」
首を捻って、歌舞伎役者のごとく見栄を張った。
四郎右衛門は、何事と、顔を突き出して脇側を手放した。組み敷き役人たちも、ひょっとこの出現に見入るばかりだった。
「お気に召されましたか。この者は、いま人気公演中の江戸歌舞伎座、甚助と申す太鼓持でございます」
「何、これが江戸者か。江戸歌舞伎役者の坂東三津五郎か岩井粂三郎を呼べと言ったはずではないか。なんだ、太鼓持か。布袋の男芸者など不愉快じゃ、踊らずともよい。さがれ、さがらぬか」
お久は機嫌を損ねる四郎右衛門の大腿を抓った。
「まずは、ごらんあそばせ。これが江戸の芸というものですよ。やることすべてが垢ぬけておりますのよ」
憎憎と肩を怒らせて、下がろうとする甚助に、
「勘定は済んでいますよ」
お久が言った。
甚助は座布団の上に居直った。襟元をちょいと崩して、声色遣いで話芸をはじめた。

えーと、それでは歌舞伎の演題『助六』でございます。
人目を忍んで助六さんに逢うからには、悋気おこして足蹴にされるとも、お腰の紐で咽をしばられようと、構うものですか。
天神様の罰とて、松乃屋さんのお叱りとて、助六さんを慕うあたしの胸は裂けんばかり。
あんれ……。お客様の前で責めないでおくんなさいまし、間夫狂いは治りません。
わたしは松乃屋の近松でござんす。
思いがけないことながら、あなたのその手で、絞め殺してくださいましな、さあ、斬らしゃんせ。
くらべてみりゃ、助六さんとあなたでは、月と鼈さ。目の丸いところは同じだけれど、助六さんは役者のように鯔背な男振り。
あなたは、意地の悪そうな、まるで、獅子神楽ですもの……。
甚助は、四郎右衛門をちらりと見、獅子頭ですもの……。再び見た。

四郎右衛門は、一瞬、声高に囃して笑をつくったが、たちまち不気味に口尻を引きつらせた。
「そうか、太鼓持はわしを獅子頭と見まちごうたか。下郎の分際で、獅子頭とは許せぬ」
「江戸では、『助六』噺を、これを粋と申しまして、笑い飛ばすのでございます。御奉行様、太鼓持には、太鼓持の意地がござんす」
甚助に臆する色もなく、斬るなら斬ってみろと、いう態度だった。
「そうか、それならば覚悟しろ」
四郎右衛門は酩酊していた。よろける足で立ち上がり、床の間に据えた刀を持ち出して鯉口を切った。芸妓たちは座敷の隅に身を寄せ、取り巻きはにたりと高見の見物である。
四郎右衛門は座布団を蹴って一歩すすんだ。
甚助は微動だもせず、四郎右衛門を睨み据えている。それがかえって四郎右衛門の邪心を煽ったようだ。
兵馬は、先ほどの扇子のお返しに一矢を報いてやろうと、呼吸を整えた。一瞬、白刃の先端が光るのを見定めると、ましらの如きの動きで四郎右衛門の懐に飛び込んで急所を突いた。手応えを感じる。四郎右衛門は大下げさに倒れこんだ。取り巻きが四郎右衛門を囲んだ隙に、兵馬は甚助の手を取った。廊下、そして階段。
階下にはごろつきを従えてお久が立ち塞がっていた。
「甚助殿は、それがしにかまわず逃げてくだされ、後は何とでもなる」
兵馬が階段を踏み込むと、急に階下が騒がしくなった。女が懐剣の先端をお久の咽に突き立てている。髪や着付けから武家娘と見受けた。
「お久、お武家様に向って何のまねです。無礼は許しませぬ」
凛とした姿は……。
「菊殿ではないか」
「やはり、兵馬様。こんなところに上がってはいけません。遊郭は迷路です。どこも、そこも、得体の知れない連中がたむろっているのです。さあ、ついて来てください」
菊の威勢のよさはあのころのままで、武家娘としての誇りも失ってはいなかった。
狭い廊下を右に左に曲がって裏庭へ。裏木戸を開けると、遊郭の裏通りだった。

外はすでに暗闇で人通りもなく、三人は小走りで天神様の境内に身を潜めた。
「兵馬さんとやら、ご恩は一生忘れやしません。わっちは、江戸の両国橋の近くの歌舞伎座に寝起きしております。時々は他国を巡りますが、今晩のようなことはめったにございません」
甚助は、いくども腰を折った。
「見苦しいところをお見せして、面目も無い」
「遊郭などは、どこでもこんなものです、惨めを見るのは弱い者だけですよ。近いうち江戸に戻ります。わっちは、なにも他国でいざこざ言う事はないんです」
甚助は歌舞伎小屋に戻ろうとして、振り返った。
「兵馬さん。江戸に出府のさいは歌舞伎座にお立ち寄りください。両国橋の両国広小路でございます。江戸城下を御案内しましよ。太鼓持の甚助と言えば、両国広小路あたりでは少しは名も知れてます」
甚助が歌舞伎小屋に戻るのを見送ると、菊と二人になった。思いを寄せた娘が目前にいる。
「兵馬様をお見かけしたときには懐かしく思いました。兵馬様のお父上様の禍は、わたくしもお父様から聞いておりました」
兵馬は返す言葉も思いつかずにいると、菊は、少々恥じらいを見せながら言った。
「もういちど、お逢いしたいのですが」
兵馬は菊の面を見た。薄明かりのなか、眼差しはあのころと変っていなかった。しかし、己は無禄で孤独の身。朝倉家とはすでに身分の相違があり、重く伸し掛かる武家の家訓が許さない。すべてを胸に畳み込むと話の接ぎ穂を失った。
なろうことなら、狂おしいばかりに抱きしめたい。このまま相携えて城下を抜け出して見知らぬ土地で暮したい。
「口約束で菊殿を縛ることはできませぬ。それがしには、まだ、成すべき事があるのです」
赦免になったら藩のために勤めたい。兵馬はそこまでは言えなかった。
「菊殿、屋敷までお送りしましょう」
「いいえ、家には戻れません。金子宗安様の養生所に参ります」
「金子殿とは、医者殿のことですか」
「はい、奥方の類様が、遊女の躾一切を仕切っておられます。わたくしは類様に従っております」
しかし、医者の奥方が遊女の躾の元締めとは腑に落ちない。すべてが上座家老の指図であろう。
「このような時刻に戻れますのか」
「養生所は深夜でも仄灯りで、昼も夜もないのでございます」
菊は養生所でも働いているのか。そして遊女の体調も看ているのだろう。
菊は養生所の角で足をとめた。
「また、お逢いできるでしょうか。兵馬様、お待ちしております」
「必ず、よい世の中が参ります。今しばらくの辛抱です」
兵馬は菊の手を強く握った。
菊を連れて逃げる勇気もなく、己は意気地なしなのだ。未練を振り切るように暗闇を走った。
  
     四

主従ともに戦場を駆け廻り、槍で五、六人も突けば出世ができる。徳川幕府になると、このような時代はすでに夢物語となり、武術で禄を上げることはめったにない。道場に稽古に来る藩士も少なく、遊郭あたりをさ迷い、茶屋などでたむろっているのであろう。漢字も満足に書けぬ藩士もおるそうだ。常々、傳右衛門が嘆いているのを、兵馬は耳にしている。
文月の蒸し暑い夜。兵馬は道場に居残って居合の形を繰り返した。瞬時に相手の肋骨を突く、次の相手の腕を逆手に取り突き放す、さらに次の相手に飛び跳ねて、指先で眼球を射止める。傳右衛門の技を脳裏に描いて、兵馬の目指すところは師の技だった。
汗を流して道場の床拭きに専念していると、道場の高窓に嗄れた声がする。
「兵馬、おるか。わしじゃ、小川の平助爺じゃ」
小川家の孫娘と根来家の嫡子正興の婚姻が成立して、この秋には吉日を選んで輿入れをすることになっていた。
このような夜更けに何の用だろう。すでに根来家の人々は眠りに就いているが、このまま無下に追い返すわけにはいかない。兵馬が潜戸を開けると、
「火急の用事で参った」
平助は激しい息遣いをし、胸がはだけて袴もずり下がっている。
「傳右衛門殿に取り次いてくだされ、早く、早く」
兵馬は庭に廻り、傳右衛門の寝屋の雨戸の前に立膝をして述べると、
「何、平助殿が来られたと」
寝覚めとも思えぬ強い声が雨戸越しに聞こえた。しばらく声が途絶えたのは、何か思う節があるのだろう。
傳右衛門と嫡子正興が書院の間に座して平助を待つ。平助は何かに怯えているようすで転げるように入った。
小川家は人通りの少ない立木に囲まれた城郭の山の手にあった。その小川家に、数日前からごろつき数人が貧乏徳利を立てて酔眼で居座っている。今にも家族に手を出しかねない素振りだそうだ。
「家族が人質に取られておるので、奉行所にも行けず、何の手も打てずに日が過ぎてきた。奴らの目的が判明したのは、今日のことじゃ」
平助は恐怖をつのらせた。

平助は所要の帰り道、藤田三郎兵衛の家来と名乗る下士から書簡を手渡された。その場で開封すると、相談あり、妓楼松乃屋まで、お越し願い候……。言々の内容であった。  
藤田三郎兵衛といえば、飛ぶ鳥を落とす勢いの上座家老の腹心である。従わねば二重に災難が起こりうる。
その足で松乃屋に行くと、松乃屋は相変わらずの繁昌振りだった。
藤田三郎兵衛は一重瞼の鋭い目つきで芸妓の酌に酔っていた。
「聞くところによると、いろいろと難儀をしているようすではないか」
小川家の難をなぜ三郎兵衛は知っている。
「何のことでござりますのか」
「助けてやってもよいのだが、小川殿のお心次第でござる」
三郎兵衛は冷ややかに笑った。
嫌がらせをしているのは、藤田三郎兵衛ではないか。平助はこのとき始めて禍の根を知った。

正興は事情を知って憤慨した。
「それなら、そのならず者を退治するまでのこと」
「それは、なりませぬ。わしら家族が血を見ることになります」
「それでは、どうすればよい」
平助が傳右衛門に擦り膝で近寄った。
「それは、誠にもって言い難いことながら、傳右衛門殿が奉行所に出頭していただきたい」
「なに、わしに奉行所に出頭せよというのか、愚かなことだ」
傳右衛門は苦笑した。
「助けてくれ、傳右衛門殿。奉行所に行けばよいだけのこと。そうすれば、ごろつきは引き上げる、そう言われておる」
「藩は財政難で、金策に四苦八苦しておるのに、上座家老や郡代の懐は肥えるばかりだ。いま奉行所に出頭する訳にはいかぬ。上座家老を諌めねばならぬのじゃ」
「わしら家族を見捨てないでくれ」
平助は老いて皺んだ目尻から涙を流した。
傳右衛門は正興を見た。太刀をむんずと握って、今にも飛び出して小川家に向いそうだった。
上座家老の藩政改革に、反旗を翻す勘定衆の強硬な態度。勘定奉行の傳右衛門さえ捕獲すれば、他の勘定衆は何とでもなる、上座家老の考えであろう。武力では傳右衛門にかなわぬと、縁故を人質にしたのか。卑怯者がやることだ、兵馬は廊下に控えながら憤慨した。
傳右衛門はしばし無言だった。息を大きく吐いて腕組みを解いた。
「わしの一念が小川家にまで禍を持ち込んだようだの。すまぬことをした。折を見て出頭することにいたそう」
「そのような、悠長なことを言っておる場合じゃござりませぬ。この時刻なら人目にもつかぬ。わしと一緒に奉行所に参ろう」
傳右衛門は、呻きを洩らした。
「さようか。帰する所、原因は一つじゃ。そのようにいたそう。支度が整うまでしばらく待たれよ」
「父上、なりません。罠です、罠に違いありません」
正興は、傳右衛門を引き止めるのに躍起になった。
傳右衛門は正興と兵馬を従えて道場に鎮座した。傳右衛門父子は、根来流祖先を祭る祭壇に向って厳かに一礼をし、兵馬は入口近くで礼をした。正興は傳右衛門の面を凝視している。傳右衛門は正興を正視するには忍びないのだろう、しばらく目を閉じてから慈愛の眼差しを向けた。
「奉行は正しき判断を下すであろうから、心配は無用じゃ。しかし、如何なる事態になるとも、取り乱してはならぬ。こうなっては、天の定めた掟にしたがうまでのこと、恐ろしきものは何もない」
「父上の志は必ずこの正興が果たして見せます」
正興の眼が輝いている。
朝方、傳右衛門は真新しい衣服に着がえて、兵馬の揃えた雪駄に足を踏み入れた。妻さとが蒼白な面で正座して、玄関の上がり框に両手をついている。夫婦に交わす言葉はなかった。武家の掟の厳しさをすべて心得ているのだろう。
玄関を出る傳右衛門を正興が追いかけると、
「未練だぞ、正興。これからは、おまえが根来家を護らねばならぬのだ」
傳右衛門が声高に叱った。
大手御門の落成も、奉行所に向う竹田坂も、幕府の許可がないままに間もなく竣工になる。財を成すと幕府にさえ傲岸不遜になるものか。兵馬は従いながら思った。
傳右衛門は立ち止まって、二本松城を眺めた。白壁が傳右衛門を拒むかのように朝日をうけて赤々と映えていた。
「藩のためとは申せ、犠牲者を出したことは心痛に堪えない。文之輔殿を死に追いやって、兵馬、許せよ。これから、わしは一身にて殿を諌める覚悟じゃ。殿を信じておるので心配無用じゃ」
この竹田坂道は地獄道。道を上り、そして下ると、奉行所になる。
「ここから先はひとりで参る」
傳右衛門は振り向きもせずに歩んで行く。
牢屋に入れば己の二の舞はありうることだ。兵馬は堪らずに後を追った。先生……。すでに竹田坂に傳右衛門の姿はなかった。兵馬に込み上げるものがあった。
傳右衛門が束縛されると、小川家に居座ったごろつきは姿を消したらしい。

傳右衛門を案じて、何もかも手につかない日々であった。兵馬は庭の枯葉を拾い、雑草を抜いた。道場の床を拭いた。門下生もひとり、ふたりと姿を消して、近ごろはぱったりと足が止まった。
兵馬は書院に呼ばれた。掛け軸の山水画は涼しい風が吹いていた。しばらく正座して待つと、粛々と歩む足音がする。正興がかつての傳右衛門の居所に正座した。さとが正興を支えるかのように座った。
「父上の武術指南役が藤田三郎兵衛に代わったそうだ」
えっ、兵馬は不吉な予感にめまいを感じた。
「それで勘定衆はより結束を固めた」
城の御用部屋で上座家老と勘定方の底のない内紛を、兵馬は思った。
「その報いであろう、昨日、鈴木堯民殿が奉行所に出頭させられた。じゃが、父上の一念は固い。奉行所の吟味のないまま、揚がり座敷で絶食を始めたそうだ」
揚がり座敷とは、武家の牢屋のことである。
獣は一片の良心もない。兵馬は怒りに戦慄いた。
傳右衛門は、脇差を取り上げられて自刃もできず、辞世の句を詠む墨も与えらず、絶食して殿を諌めるつもりなのだろう。
「小川家との婚姻は解消した。父上と同じ定めがそれがしにも来るであろう。兵馬とて城下におっては命が危ない。水原村に戻るのがよかろう」
「それがしの一身は、すでに根来家とともにあります。今はその時機ではありません」
「なりませぬぞ、兵馬。世の流れがかわるまで、身を潜めて勉学に励みなさい。それに、菊という娘子がおるとも聞いております。田畑を耕して幸せになりなさい」
さとは厳しい表情を崩さなかった。
武士を捨てれば魔手から逃れられる。兵馬の心が一瞬揺れた。菊との幸せを望んだこともあったからだ。

     五

兵馬は根来家から暇を取らされて根来の屋敷を出ると、遊里の芝居小屋に向かった。夕暮れの湿った気がただよい、歌舞伎芝居も今が最高潮であろう。入口では、呼び込みの叩く小太鼓の音のせわしさと、調子のよい江戸弁が庶民の心を浮き立たせている。町娘などが役者絵を覗き込んではしゃぎ、年増女が男連れで小屋に入って行く。武家の奥方などの姿もあって、江戸歌舞伎は相変わらずの繁昌だった。
いつしか、歌舞伎役者の幟も挿げ替えられて様変わりしているのに気がついた。小屋の呼び込みに甚助を尋ねても首を傾げるばかりで、すでに甚助の姿はなかった。たしか、公演は月替わりだったらしいが、甚助は先日の騒動で愛想尽かしたか、すでに江戸に戻ったらしい。それでは菊に逢おう、逢わねばならぬ約束があったのである。
その足で、妓楼松乃屋の通りにでた。松乃屋の客溜まりには男たちがたむろっている。ひと目を忍んで、格子越しに客見せ女郎を覗きこんだ。他国から買われた女郎であろう、長煙管を吹かして虚ろな目をしていた。人の通りは多い。折り好く人の途切れたのを見計らって、格子女郎の手元に散銭を放り込んだ。 
女郎は兵馬を見て目を丸くした。松乃屋で人騒がせをした兵馬の顔を知らぬはずがない。女郎はさらりと散銭を掌に掬うと、流し目をして寄ってきた。
兵馬はあたりを気にしながらも、格子に頬をよせた。
「いま、松乃屋に菊殿はおるか。おるなら伝をたのみたい」
女郎は慌てたようすで、銜え煙管を長火鉢に放し、ちらりと奥に目をやって声をひそめた。
「あの日から間もないことです。菊様は藤田三郎兵衛の手下に捕らわれました」
「それでは、菊殿は牢屋か」
「存じません」
郡代あたりの差し金であろう、取り調べもなく薄暗い牢屋で耐える菊を思った。奥に声が立ち、女郎が目配せをする。
「誰か、来ます」
「かたじけない」
女郎が格子から身を放すと同時に、兵馬も松乃屋を離れた。
菊は己を救うために懐剣を抜いた。菊を手の届かぬ牢屋に追いやったのは、松乃屋に上がった己が不覚を取ったからだ。水原村に帰ろう、 悔恨の念に囚われながら城下を後にした。
傳右衛門に連れられて村を出てから初めての戻りだった。家禄を上げるまで戻らぬ覚悟だったが、ご上座家老の権力には歯が立たなかった。父親の命を引き換えに、生き延びて恥を晒している。何と言う親不孝者であろう。村につづく道は星明りが頼りだった。
禄を取り上げられ城下を追われて、兵馬は父親に従えて徳兵衛屋敷にかくまわれた日を思い出した。畑の隅でも借りて飢えを凌ごうと訪ねたのだが、父親の自刃、厄介者の己と、さらに迷惑をかけることになる。恥も外聞もなく、よくも戻ってこれたものだ、徳兵衛は思うだろう。
水原村の加藤徳兵衛屋敷に着いたころには東雲が白んでいた。農家の朝は早い、すでに作男たちが味噌蔵に出入りしていた。屋敷の門で躊躇すると、通りがかった作男が、兵馬を見て瞬きをし、すばやく母屋に入った。
徳兵衛が出迎えてくれた。手を差し伸べて、着のみ着のままの兵馬をしばらく見上げた。
「ずいぶんと、おやつれになられましたなあ。お待ちしておりました」
地蔵のように慈悲の眼差しの徳兵衛に、兵馬は目が潤んだ。
屋敷奥の土蔵の内は逼塞していた当時のままだった。締め切って湿った臭いが鼻を衝く。父親の匂いはすでに消えていた。
「これが、文之輔様の位牌でございますよ。それと、お預かりの品がございます」
父親の一切の始末は徳兵衛が取り計らったと傳右衛門から聞かされている。兵馬が礼を述べると、
「御父上様は村寺の境内にて、見事な御最後でした」
徳兵衛は多くを語ろうとしなかった。かつて父親が写経をしていたときの机上に白木の位牌が鎮座していた。手向ける線香も花もない、位牌に手を合わせると涙が込み上げた。
頃合を見計らって、徳兵衛は母屋から太刀と油紙で包装された書状を大事に抱えてきて、何かいわくありげだった。
「これが太刀。この書状が遺書でございます。兵馬様に渡してくれと、御父上様が申されました。よく、御覧になってください。わしは母屋におりますゆえ、御用のときは何なりとお申し付け下さい」
高窓の明りは兵馬をやさしく包んでくれた。兵馬は形見の太刀を握りしめると、在り日の父の温もりが伝わってきた。逸る心を抑えて丁寧に畳まれた遺書の封を切った。筆跡はまさしく父親のものである。

奥州二本松藩上座家老丹羽貴明は五欲を貪り、遊郭などから賄賂を強要し、上座家老屋敷などは城のごとし。一方、藩の財政は旱魃冷害により、疲弊するばかり、大手御門の改築、竹座坂の改修工事なども、未だ幕府の許可が下りず、云々。
この書簡は、江戸へ上り、箱訴すべし……。

このようなことを詳細に認めてあった。読み進むうちに涙は乾いていた。一刻、二刻、時の経つのを忘れ、放心したように座り込んだ。
外の明りとともに、徳兵衛が蔵に入ってきて、上がり框に正座した。
「落ち着きなされましたかな。腹も空いたでしょう、まもなく昼餉でございます」
兵馬は書状を折りたたんで位牌とともに包み、膝の上に大事に抱えた。これがすべての財産だった。
「文之輔様が、こう申されました。わしら親子には百姓一揆の扇動した覚えもなし、藩の繁栄をひたすらに願うものなり、死をもって信を守るほかない」
遺書にある訴訟などという大それたことに、兵馬は決心がつかなかった。
「もし、お気持ちが進まぬなら、すべて、焼き捨てるようにと、文之輔様が申されました。兵馬様、遺書は焼き捨てなさい。そして、わたくしどもと働けば、上座家老は危害を加えないでしょう」
遺書の内容を徳兵衛は知っているのであろう。
農家というものは、田畑を耕して種を蒔き、やがて稔りの収穫は、何物にも代え難い喜びとなる。もしも訴訟が失敗すれば、ただの犬死になるかもしれない。徳兵衛はこのことを言いたいのであろう。
しかし、これまで藩政改革に関わった傳右衛門、父親、そして菊、このところ続いた農家の飢饉に恩赦もない冥加金。やはり父親の意志を継ぐのが後継ぎの定めであろう。己の成す事は江戸に上ることなのだ。
「それがしは、御父上の仰せに従います」
徳兵衛がため息をついた。
すでに旅支度の準備はされていたようだ。母屋から真新しい肌衣から袴を持ちだして、旅支度を整えてくれた。わずかだが路金の入った巾着もあった。
「御父上様に成り代わりまして、我が息子を送る気持ちでございます」
徳兵衛は立ち膝で太刀を差し出した。それを腰に差して兵馬は凛々しかった。
「わしら、百姓のために難儀をかけます」
行く末を案じたか、徳兵衛は一筋の涙をみせた。

徳兵衛と連れ立って村寺に向かった。文之輔は村寺の墓地に埋葬されているらしい。
「兵馬様を手放して、御父上様は後悔なさっておりました。兵馬様が奉行所に出頭したあたりから、覚悟を決めたようでございます」
「それがしのためにですか」
「親とはそのようなものでございましょう」
道々、徳兵衛は語った。
文之輔の墓地は村寺の外れにあった。赭い盛土に立つ墓標には、大樹の枝間から陽が零れ落ちていた。父上の志を継ぎます、兵馬は墓前に誓った。
住職が手を合わせて引声念仏を唱えた。
「義理ほど悲しきものはござりません。それでは、位牌をお預かりいたします」
住職に位牌を託すと、波立つ心が鎮まった。父親は住職から仕事を請け、多くの論を交わしたろう、住職に聞きたいことは山ほどあったが、それは未練であろう。
「武士には武士の掟があり、農民には農民の掟があるのです。わしら僧侶にも掟があるのでございますよ。南無阿弥陀仏」
武士は武士の掟、己の定めは直訴なのだ。
徳兵衛が兵馬を促した。
「城下から兵馬様のお姿が消えれば、藤田三郎兵衛は、街道筋や江戸市井に刺客を向けましょう。奴らには街道筋など我が物顔でしょうから」
徳兵衛は、まだ言い足りないようすだ。
「徳兵衛さん、ご恩は忘れません。農民衆にも助けられました。今度はそれがしがご恩をお返しいたします」
山の紅葉も、里の田畑も、百姓の息吹も、兵馬には何もかも見納めだった。菅笠を深くかぶり旅人の姿で、人知れず郷里を後にしたのである。
  
     六

奥州街道を上って白河、宇都宮、越ヶ谷、そして七日目、ようやく兵馬は江戸の千住宿場にたどりついた。  
千住宿場は千住大橋を挟んで、上宿、下宿からなり、人馬を乗り換える継立てになっていた。街道の両側は、旅籠屋の番頭や海藻の匂いを漂わせる乾物屋の番頭が立ち並び、いかにも江戸っ子らしく、やっち、やっちと、威勢のよい掛け声をあげて客寄せをしている。そろそろ提灯の灯るころだ。道中支度の旅人にまぎれて大橋を渡った。景気のよさは、国許とは雲泥の違いがあった。
はるか西山の稜線にかかる日照り雲が大河の水面を染めて、明日も天気はよさそうだ。橋を渡り終えると、下宿も人波を掻き分けて進むほどの賑わいを見せていた。
女たちが愛嬌を振りまいて、強引な客引きをしている。ここで宿入りするにはすこし早すぎるようだ。兵馬は見ぬ振りをして通り過ぎようとした。
「お武家さま、お泊りさんでございませんか、およりなさいまし、千住の女は情に厚うござんすよ、今宵はゆるりと悦んでくださいましな」
 歯切れのよい鼻にかかった江戸弁が耳元でささやいた。よく見ると垢抜けした女である。細く白い腕が首に絡まり、白粉の甘い匂いが漂った。
「無礼者。田舎侍と軽んじて、からかうものじゃない」
「おや、お武家さま。おっしゃいましたわね。そこまで言われりゃ、もう離しゃしませんから」
兵馬は女が掴んだ袖を強引に振り切った。この街で遊ぶ余裕などない。油断すると身ぐるみ剥ぎ取られそうである。
兵馬は街道をひたすらに急いだ。
人波に翻弄されて西も東もおぼつかない。やがて着いたのが大きな寺院だった。ここがお江戸の浅草寺か。人いきれ、潮の臭い、影のように立つ托鉢の僧に小銭を施して手を合わせると、逸る気持ちが幾分か鎮まった。
気づくと、浅草寺の雷門の正面あたりや浅草広小路、茶町をさ迷っていた。蕎麦、天ぷら、おでんの暖簾をかかげた茶屋は、軒先の腰掛台まで混んでいる。客を掻き分けて茶屋に入るのも億劫だった。
おもむくままに吾妻橋のたもとにくると、『やきうどん・あたりや』と墨の滲んだ招き行灯が目に入った。箱台の上に土鍋を乗せて、箱の中には七輪を入れて、両掛けの天秤棒で担ぐ、鍋焼きうどんの流し売りであった。兵馬はとっくに空きっ腹であったから、腹ごしらえをして落ち着きたかった。
「うどん一杯おたのみ申す」
小太りの親爺が、愛想よく七輪から小さい土鍋をおろすと、すでに、うどんが煮えていた。
「このどんぶりでお仕舞いになりやした。最後の捨て値ですぜ。お武家さま」
親爺の恵比須顔には温もりがあった。
「それにしても、この江戸の賑やかさ、郷里とは比べにならん」
兵馬がつぶやいた。じろりと親爺が兵馬を見返したのを、兵馬は気づかなかった。
「何しろここは将軍さまのお膝元ですからね、毎日がこうでさあ。そこそこ稼げりゃ結構なんで、儲けも気にしたことがねえ。どんぶり一杯二杯の商売で十分なんでございますよ。のんびり稼がせてもらっています。それはそうと、お武家さまは奥羽あたりですかね」
兵馬は台に腰を下ろして、喉越しのよいうどんを勢いよくすすり、奥羽などと言われると、いくぶん親しみを覚えて、満ち足りた汗が額に浮いた。
「どうして、奥羽とわかった」
「へっ、先ほど、三人連れのお武家さまが、うどんを啜りながら、お国訛りで奥羽二本松などと申しておりましたのを、聞挿みましたもので」
うっ、兵馬は食べかけのうどんを吐き出した。お国訛り……。これは油断がならぬ。あたりを見回した。すでに藤田三郎兵衛の刺客が江戸市井に入っているのだろう。
「さようでございましたか。なにか訳がおありようで。二本松様でしたな、二本松江戸御屋敷は、そりゃおおごとだ。お堀をぐるりと巡って桜田御門。またぐるりと巡って、そうそう半蔵御門の手前になりますかな、遠いですなあ、歩いて行かれますのかな」
「今夜は、どこかの木賃宿にでも厄介になりたい」
「あっしも、今晩の商いは仕舞いにさせてもらいます。あっしの住まいは両国橋のところでしてね、近所には口入屋もございます。そのようなご事情なら口入屋になんなりとお尋ねになってくださいまし、悪いようにはいたしません。もちろん、口入屋は木賃宿も手配してくれますし、道案内だって賜ります。ついておいでになりますかな」
流し売りの親爺は好意を寄せてくれた。
両国橋といえば、甚助が言っていた歌舞伎座が建つ両国広小路ではないのか。そこまで行けば、甚助に会えるかもしれない。目指すは、江戸の評定所、目安箱が目前に迫っている。
兵馬は親爺の後につくことにした。辺りは煙ったようにどんよりとして、武家屋敷の長い塀にもすでに闇が押し寄せていた。
「この辺りが御米蔵です。鳥越橋、浅草橋を渡ると両国広小路です。ほれ、そこの大河に架かるのが両国橋ですよ。賑やかさは浅草と変りませんな」
兵馬は立ち止まって、両国橋方向の家並みや道の曲がりを目に焼きつかせた。親爺なら評定所の場所や目安箱について知っているだろうが、油断がならない。
「お江戸は米不足で物騒なところと聞いて来たのだが」
兵馬は故意に話題を逸らした。
「そりゃ、いっときは米が値上がりしてひもじい思いをしました。じゃが、諸国からの善意の米が送られてきましてね。この繁昌にいたりやした」
今年も国許の農民は穀物の不作で苦しんでいる。それでも江戸の暮らしを支えているのだろう。
親爺は巧みに人混みを交わして、馬喰町の片隅の、間口二間たらずの口入屋『丸八』の暖簾をくぐった。
『丸八』の女主人は、紫の小紋の着物が似合う肥えた女だった。勘定場でちらりと兵馬を値踏みし、愛想よく向きをかえた。
「それで、おまえさん。お国はいずこで、お名前は、晩飯はよろしいのかえ。とにかく宿だけ探しましょう。それで、江戸まで来た用向きとは」
女主人は、帳場格子に掛けていた大福帳を手にとって、兵馬の在所と名を記帳し、前金を催促した。
「番頭さん、旅人宿の『正八』に御案内して差し上げて」
色白の細面の番頭に連れられて角を曲がり薄暗い裏道にでた。ぼんやりと障子の灯ったところが木賃宿らしい。
「お尋ね申す」
「へっ」
番頭が振り向いた。
「御城は、どのあたりになるかのう」
「御城でございますか。御城なら両国橋とは反対の方向で、馬喰町、小伝馬町を進んで、常盤橋を渡らずに呉服橋を渡ったところでございますよ」
兵馬はどきりとした。いま、番頭は両国橋と言った。両国橋で立ち止まったとき、流し売り親爺は不審に思ったのだろう。すでにそのことを番頭が知っているとは、ますます油断がならぬ。番頭に江戸城を尋ねたのも無用心だった。
木賃宿に入ると、先客が箱火鉢を囲んで煙草を吹かしていた。兵馬は無言で会釈をし、奥の壁際に腰を据えた。すでに身体は疲れ切っている。大刀を抱えて目を閉じた。

     七

翌日の早朝。兵馬は甚助を尋ねて両国西広小路あたりをさ迷った。昨夜のような賑わいはなく、茶屋の男衆が魚河岸にでも向かうのだろう、急ぎ足で兵馬の肩を素通りしてゆく。両国西広小路の建ち並んだ歌舞伎小屋を何軒か廻ったが人の気配はなく、町はまだ眠っているようだ。紙屑拾いが腰を伸ばしてこちらを見ている。兵馬を気に留めたふうだが距離を置いている。
父上の遺言書によると、江戸城、辰ノ口の評定所に目安箱が置かれているのは、二日、十一日、二十一日の月三回。菊月の十一日とはちょうど今日にあたる。刺客が探し回っているだろうから、あと十日は待てない。少々焦りを感じた。鋭い目つきであたりを警戒している己の姿を、紙屑拾いなどには常人とは違って見えるのだろう。探しあぐねているうちに陽もたかくなり、町人もちらほら動きはじめていた。兵馬は歌舞伎小屋の脇に重ねられた水桶に身を寄せた。懐の訴状書を確認して、袴の紐とわらじの紐を締めなおす。ふと、往来のざわめきがぴたりと止んだ気がした。
兵馬はいつのまにか、三人の浪人に囲まれていた。藤田三郎兵衛の差し向けた刺客に違いない。うどん屋の親爺か、それとも口入屋あたりに、大枚を握らせたものと見える。それぞれは白刃を構えて、殺気がひしひしと迫ってくる。最初は手前の者に的をしぼり、呼吸を整える。相手の太刀先の微動と同時に身体が反応した。
「渇」
兵馬は空気を引き裂くような声を発し、白刃を避けて肋骨に当て身を食らわした。
次の相手は中段に構えて突きを狙って来るらしい。太刀先の微動と同時に踏みこんで咽を射止める、と同時に背に太刀風をうけた。振り向くと三人目が太刀を構え直すところだ。兵馬はましらのごとく飛び跳ねて相手の目を射る。手加減をしたから相手は死ぬことはないだろう。しかし、背中の太刀は思いのほか深く、愕然と膝を折った。懐の訴状を確かめて、先を急がねばと思った。
「どなたか、太鼓持の甚助さんを知らぬか。呼んでくださらぬか。頼む、頼む……」
幾人かの見物人に声はなかった。急がねばと焦った。人知れず馬喰町に入り、旅人宿を横目に見ながら歩む。途中、牢屋敷通りを抜ければ、背中が血糊でぬるりとして、痛みが襲ってくる。
目指すは評定所。一心に念じると痛みもいくぶん薄らいた。往来から弾き出されるように、人知れず馬喰町、そして小伝馬町を牛歩のごとく歩んで、やがて常盤橋にさしかかる。そうだ、常盤橋を渡らずに呉服橋を渡るのだ。目の前が白んだ。すこし横になりたい。土手に身を丸めて起き上がる気力も薄れていた。ふと、肩を労わる温もりを感じた。面をひねり上げると、太鼓持ちの甚助に似ている。
「そなたは……」
「やはり兵馬様でいらっしゃいましたか、あのとき妓楼松乃屋で助けていただいた甚助でございますよ」
甚助は相変わらず肥えた身体をしていた。
「紙くず拾いに事情を聞かされて、もしやと思いましてね。先々と人に尋ねて、跡をたどってまいりました。江戸なんて、広いようで狭いんでございますよ。近くにお稲荷さんがございます、そこで事情を伺いましょう」
兵馬は甚助に支えられて、繁みの中に鎮座する稲荷神社の境内に崩れこんだ。着物をはだけると、肩から背にかけて生々しい傷口が開いている。甚助は首から外した手拭で血糊を拭って襷掛けにきつく縛ってくれた。
「気を確かにお持ちください。どうして、こんなことに」
「江戸に来た理由だが……」
二本松城の家老一派は、遊郭の繁盛をいいことに私欲をむさぼり、結局それは庶民や農民の働く意欲を失わせ、年貢が落ち込んで藩財が苦しくなっている。
「勘定奉行の根来伝右衛門様は、御家老を諌めると、卑劣な罠にはまり牢に入れられて、奉行所の吟味もないまま食を断ち、果てました。それがしも、農民一揆を煽ったと、嫌疑をかけられましたが、父上が無実の証を立てるために自刃し、それがしはご赦免になりました」
「あの町奉行たちなら、儲けに手段は選ばないでしょう」
「懐には訴状書が入っており、行く先は評定所です」
「何という、大胆な」
甚助は一瞬、驚いたふうだが、即にあたりに目を配った。
「お武家さまの訴状は、藩を揺るがす大事件なのですよ」
「それがしは禄を取り上げられて、給わってはおりません。奥羽浪人です。浪人の訴訟は、即に自刃すれば、藩には関わりがなく、藩へのお咎めもないと聞いております」
「死ぬなんてとんでもない。生き延びてください」
「藩の窮地を見ぬふりはできません。これが、それがしの定めです」
「あっしも、江戸っ子です。事情を知ったからには、捨ててはおけません。おまかせになってください」
甚助の表情が一変したようだ。兵馬の髷を整えて袴の紐を締めなおし、草鞋の紐をしっかりと結んでくれた。
「目立たぬよう、駕籠で行きましょう。しばらくお待ちを」
甚助が立ち去ると、兵馬は目を閉じた。秋色に染まったであろう故郷の景色が目に浮かぶ。頭を振って思いを断ち切る。すでに、戻れる故郷はなかった。参拝者の足音に身の危機を感じた。いつ刺客に襲われるか知れない、気が許せなかった。
「怪我人だから、丁寧にお頼みしますよ」
甚助の声がする。
「どちらまで、行きますのかな」
「わたしが御案内いたします。後をついてきてくださいな」
兵馬は駕籠に乗せられて揺られた。常盤橋を過ぎると呉服橋。呉服橋を渡りおえると大番所。見知らぬ江戸の道順を描いた。
「駕籠屋さん、ここで降ろしてくださいな」
甚助の声はよどみなく、緊張しているのが伝わってくる。
兵馬は駕籠から降ろされた。この近くに評定所があるのだろう。
「さあ、肩におつかまりください。あそこが大番所、その先が評定所です」
甚助の肩は逞しかった。
大番所の周囲は掃き清められて塵ひとつ落ちていない。足裏に地の冷たさを感じる。二人の気配を感じたか、大番所の役人が怪訝な顔つきをして出てきた。役人に訴状書を渡しては、揉み消されることもあるであろう。
「兵馬様、役人に疑われることになったら、知らぬ、存ぜぬ、と通り過ぎましょう」
甚助も同じ考えらしかった。
「何用で参った」
役人が血色のよくない兵馬に不審を抱いたようだ。
すかさず甚助が前に出て、大声で言った。
「公儀御用人、林肥後守様のところへ参ります」
公儀御用人林肥後守といえば、江戸の日本橋堀江町魚商甚左衛門の子息。昌平学問所で学び、卓越した人材で、老中若年寄りを凌ぐ権威があった。庶民の嘆願も良く聞き入れてくれると、評判もよかった。その公儀御用人の名を出すと、疑いもなく役人は顔色を変えた。この役人には手の届かないほどの高官であるのだろう。
「林肥後守様は、出仕しておらぬぞ」
「それでは、待たせていただきます」
役人は後々の禍を恐れたか、しぶしぶ二人を通した。
この先を曲がれば評定所である。甚助に迷惑をかけてはならぬ、兵馬は甚助の肩から身体を放した。
「最期を見届けて差し上げます。誰にも邪魔をさせませんからご安心なさい」
甚助は評定所の角に立ち止まって見送っている。幸いに評定所の周囲に人の気配はなかった。役人たちは執務中なのだろう。地に足をつけてゆっくりと歩む。懐の訴状に手を添えて確かめる。訴状書には藩の行く末を委ねて、ずっしりと重く感じた。
公事人腰掛の上には、確かに檜の目安箱が据えられていた。横に鋲が打たれて、高さ一尺五寸、横二尺五寸ぐらいで確りした箱だった。                
伏して深々と礼をした。懐から訴状書をとりだす手が震えた。箱の上方には細く長い小口がある。訴状書はするりと入った。
見つかる前に評定所から離れねばならない。兵馬は周囲を見回した。公事人腰掛を離れると、道三掘りが水を湛えている。土手を拝借したいと思った。
父親文之輔、恩師傳右衛門、豪農徳兵衛、意中の菊の顔が浮かんだ。袴の紐を解いて衣服をはだけた。奸獣に一矢を報いるごとく、兵馬は腹に白刃を突き立てた。

     八

公儀御用人林肥後守は、奥羽二本松藩に思い入れがあった。上座家老丹羽貴明の名目で、日本橋堀江町魚商の実家に、貢物の金品が届けられていたのである。
貢物は気にかかっていた。それがこのたびの一件、奥羽浪人、村上兵馬の訴状と何らかの関係があるのであろう。
「吟味せねばならぬ」
林肥後守は、二本松江戸屋敷に通達を出すと、江戸詰めの重臣が出頭してきた。
「その貢の品は、江戸屋敷では心当たりがござりませぬ。昨今、我が藩は財難に困窮しておるところで、貢物などは何かの心違いかと存じまする」
二本松藩重臣は困惑の表情をした。
「それならば、二本松藩勘定方、村上文之輔、兵馬親子を存じておるか」
二本松藩重臣はすこし考えたふうだが、思い出したように、
「村上家は、すでに二本松藩から離藩しております由、消息は存じませぬ」
二本松藩重臣は額に汗を滲ませている、何かは知っているようすだ。
「それでは上座家老丹羽貴明を吟味いたそうではないか。上座家老出頭されたし」
林肥後守は、強い口調で言い渡した。
このことは、即に国許二本松城に伝えられた。

上座家老は江戸へ向かう途中、駕籠の中で考えあぐねた。幕府を侮った報いであろう、林肥後守には賄賂も効き目がなかったらしい。思うと、急に腹が疼きだした。やがて、はらわたが千切れるほどに痛んだ。
「駕籠を引き返せ、国許に戻るのだ」
思慮も無くわめきたてた。駕籠をとりまく一行は踝をまわし、よろける足取りで国許に向かった。
林肥後守との面会を反故にしたからには、何らかのお達しがあるであろう。上座家老は覚悟を決めると、あれほどの腹痛も水面のように鎮まった。
後日、二本松藩に処断を決された。
二本松城大手御門築造、江戸藩邸修理、竹田坂改修等は、幕府に背くものあり。
上座家老丹羽貴明、私利私欲は吟味の疑いあり、上座家老職を辞す。
郡代役丹羽四郎右衛門、知行四八○石、諸役御取上げ、閉門蟄居。            

(二本松城大事出来 了)