短編時代小説「二本松城『戒石銘』」
松川町水原の小説家 丹野 彬(たんの あきら)様の作品「二本松城『戒石銘』」をご紹介いたします。
丹野 彬 様の作品は、膨大な資料に基づいた時代考証と登場人物の巧みな心理描写をもとに壮大な世界観を紡ぎだします。ぜひご覧ください。
以下横書きで全文掲載しておりますが、縦書きの方が読みやすい方はこちらをご覧ください。→ 「二本松城『戒石銘』」縦書き版(PDF 1MB)
短編時代小説
二本松城『戒石銘』
丹野 彬
一
五月ごろから雨は降らなかった。梅雨に入っても、吾妻山の峰々に雲がわきたつ眺めも見られず、村里はじりじりと暑さに焼かれた。ことしは空梅雨だろう、天を仰いで百姓衆がなげいている。
近ごろ、祈祷師が村の神社に寝泊まりして雨乞いをはじめたが、幾日たっても龍は雲を従えてこない。奪い合うように夜水をひいて、ようやく田植えまでこぎつけた。それでも、ありがたいことに、桑畑の端に枝張った梅の老木が鈴なりに実をつけたのである。
奥州信夫郡八丁目村と二本松藩領塩沢村の境は、うっそうと木々や夏草が生い茂り、森のなかに逃げこんだ罪人は追わない、といわれるぐらい深い森である。里人はこの森を、信夫隠し、と呼んでいた。
森の谷道を、杖を手にした若者が、叺入りの塩を背負って黙々と歩いている。中肉中背の逞しい体つきで、二十ぐらいであろう。正午の暑さはいっそう厳しく、脂汗が額から襟首までとめどなく流れている。塩は梅漬けにするのである。
やがて、森をぬけると、山肌を切り拓いた段々畑になった。白く立ち枯れた麦穂がさらさら音もなくゆれたのは、餌をついばむ小鳥のいたずらであろう。もはや、沢の流れは枯れて、蛙やいもりのすがたは見ることがない。川底には乾いた石群れがころがっている。
すでに、若者の草鞋は擦り切れて、傍から見ればまるで素足であった。
「はて、あれは……」
飢饉の年には猪が増える、と古老の言い伝えが、まさにそのとおりで、沢のあたりに猪の群れがうろついている。土色の毛並み、肉塊の尻をふりふり湿りをおびた土塊を鼻先でほりおこしていた。
猪は夜明けに出没するものだが、子連れともなれば腹もすく、餌をもとめて山間をあるき、立ち寄ったのだろう。
子猪、つまり瓜坊たちが道で飛び跳ねている。人間の恐ろしさをまだ知らない瓜坊は、呼べば近寄ってくるだろうが、子連れの猪は凶暴である。すでに人の気配を感じ取ったらしく、首をもたげて周囲を警戒しているようすだ。
猪が通りすぎるまで一服しよう。若者は土手の高みに背の荷をおろした。
猪が道に立ちすくんで前方を見据えている。なにげなく目をやると、先方から武士の連れが歩いてくるではないか。武士から猪の群れは死角になるらしく、二人は会話に無中だった。このままでは、武士と猪の鉢合わせは避けられない。太刀をふりおろすか、噛みつくか、どちらかが血を見ることになるだろう。
案の定、武士たちが立ち止まった。
猪と目を合わせたらしく、一瞬、恰幅のよい武士が小柄な武士を背後に押しのけて刀に手をかけた。小柄な武士に腰の物はない。ひたすら矢立を握りしめている。いざとなれば矢立も武器になるだろう。とっさの行動で抜刀した武士の腰が定まらないようすだった。
すでに、三疋の猪が牙をむきだして武士を威嚇している。
「危ない」
若者は杖棒を鷲掴みにすると、ましらのごとく猪めがけて突進し、目にもとまらぬ早業で、三疋の猪の頭上、喉元、脇腹の急所をしたたかに打ちすえた。猪はつんのめり、片方は転げながらも立ちあがり、慌てふためいて藪のなかへと逃げてゆく。わらわらと瓜坊が後を追った。
あまりにも見事な若者の棒捌きに、恰幅のよい武士が目を凝らしたまま頓狂な声をあげた。
「わっ、わしなら三疋を切り捨てていたであろうに……」
猪を先取りされた悔しい思いをあらわに、鞘に刀をおさめた。
「それにしても、棒捌きは見事であった。おぬしはいったい何者じゃ。名は何と申す」
若者は土に膝をついた。先ほどの元気さは失せて、なぜか、顔色を失っている。
「名を申して見よ」
詰問されて、若者は、戸惑っているふうだが、叶わぬと見たらしく、身体に似合わぬ低い声をだした。
「上水原村の百姓でございます」
「なに、おぬしは百姓なのか。百姓が棒術など使うものか。怪しい奴だ、ここは二本松領じゃぞ」
二本松藩領のとなりは、鼓ヶ岡村、天明根村、八丁目村、上水原村、下水原村の五ヶ村、幕領川俣代官所の支配下にある。代官所は不作の年でも、例年とおりの年貢をびしびしと取り立てる。そのたびに幕領百姓の不満は二本松藩にむけられ、藩からみれば、幕領百姓は厄介者であった。
「忠亮さま、なにも声を荒らげなくともよいではありませぬか」
小柄な武士が、忠亮の袖をひいた。
「通りすがりの戯れにぞんじます。どうかご勘弁を」
若者は猫のように怯えている。忠亮はそのすがたを見据え、
「さようか。上水原村の百姓とやら、助けられたぞ。昨非さま、先を急ぎましょう」
唾を吐き捨てるように言い、歩き出した。
信夫隠しの奥深い森のなかに、逃げる気なら逃げられる機敏な技をもちながら、若者はじっと地に伏せている。なぜだ。
二人は歩きだしたが、やはり、昨非には気になることがあるらしく、何か忘れ物でもしたかのように小走り、荷を背負いかけた若者に追いついた。
「すまぬが、名前をうかがうのを忘れておったぞ」
すでに懐から懐紙をとりだして矢立の筆を抜いていた。
「歳をとると忘れることが多くての。この懐紙におぬしの名前を書いてくださらぬか」
若者はためらった。名を書く理由は何もない。
「書きなさい」
昨非は、なかばむりやりに書かせようとした。若者は不安と恐怖心で、百姓 平四郎、と筆で書いた。
「かたじけない」
昨非は書体から何かを感じ取ったらしく、うん、うんと、うなずいて折り畳んだ懐紙を懐におさめて相好をくずした。若者の凛とした面構えが印象にのこったようだ。
忠亮が振り返りようすをうかがっていたが、昨非が追いつくと苦笑いをした。
「昨非さまも、物好きでござるな」
「いや、何のことはない、少々気になることがありましてな」
昨非は、額の汗を払い、衣服の乱れをなおして、何事もなかったかのように二本松城下へと足をはこんだ。
二本松藩の忠亮と昨非。二人の人物が何者か、若者には知る由もなかった。
二本松領の塩沢村をすぎて水原郷にはいると、夕暮れに染められたあかね色の眺めがひろがった。大欅の八方に伸びた枝のかげりに、加藤屋敷の大屋根がみえかくれする。我が家を目にしたとき、若者はさきほどの騒動をすっかり忘れていた。
二
奥州二本松藩祖丹羽家は、織田信長の重臣として仕えた家柄であった。その分家の丹羽家は、江戸常盤橋町で旗本、江戸町奉行をつとめていた。丹羽高寛は江戸町奉行の子息、江戸で生まれて江戸で育った。
二本松藩四代藩主秀延公の逝去で、高寛は養嗣にむかえられ、二十歳で二本松藩五代藩主として初めて国入りした。奥州の水になじめぬまま、あれから既に二十一年が経ち、四十一になっていた。
丹羽高寛が江戸から赴任したときに従った藩士を江戸表藩士。秀延公に従っていた藩士を国許藩士と色分けして、政に支障をきたしている。先代秀延公からの遺言である藩政改革の見直しも、いまだに手付かずのありさまだった。
寛延二年(一七四九)。将軍徳川吉宗の改革増税は二本松藩も余波をうけた。
このところ、毎年、冷害や干ばつに見舞われて飢饉に瀕しているとき、幕府から、日光東照宮の修築工事の依頼が舞い込んでいたのである。
藩財もすでに底を突いて、頼るところは百姓の年貢の増税きりなかった。無理をとおせば、村々の百姓衆からひんしゅくを買うのは目に見えている。
高寛は、国表藩士、国許藩士のわだかまりを一掃するつもりで、嫡子六代藩主高庸に家督をゆずり隠居の身であった。表向きはそうだが、事実、権威はいまだ高寛にあった。
老職と家臣たちの居並ぶ広間で、藩主高庸は家臣たちの進言に耳をかたむけていた。かたわらに隠居高寛が黙してすわり、家老丹羽忠亮が目を怒らせて聞き耳をたてている。これを、儒学者岩井田昨非がじっと見まもっていた。
国許の勘定奉行は、若い藩主に物足りないところがあるらしく、威圧を含んだ野太い声をあげた。
「いつのまにか百姓たちは知恵をつけており、田畑の面積が狭いとか、釈竿が短いとか因縁をつけ、こともあろうに、家臣たちに罵声を浴びせることもあるらしい。百姓を黙らせるには、もっと若殿が権威をみせつけねばなりませぬ」
従来、百姓がたがやす田畑をはかる釈竿は六尺三寸。それを三尺切りつめて、六尺竿にあらためよと、勘定奉行はいいたいのである。
「権威をみせつけるとは、何事ぞ、申してみよ」
怪訝な面持ちの若殿高庸が、忠亮に救いをもとめている。忠亮は顔をしかめている。
権威をみせるとは、百姓衆を服従させることで、高庸にこれを理解させるのにはまだ若輩すぎる。やはり、頼りとする人物は、隠居高寛ほかなかろう。昨非は、冷静さを失いかけて湧き出た生唾をのみこんだ。
勘定奉行の顔がますます紅潮した。
「豊臣秀吉公が奥州成敗のとき刀刈りをしたとき、不服を申す在地領主や百姓は切り捨ててもかまわぬと、申したそうではないか。刀にかけても、百姓に有無を言わせてはならんのです」
忠亮があわてて扇子を突きだした。
「百姓を斬るとは、あまりにも口が過ぎますぞ、勘定奉行」
「そのぐらいの心構えがなければ、財源が増えぬと申しておるのです」
昨非は聞くに堪えなかった。
「隣藩を押さえるに武術は必要かとおもうが、百姓衆から年貢をいただくに、武術などは必要ござらぬ。百姓衆と懇意になさるには、わが藩には何かが足りぬのでござる」
「何かが足りぬ。よくもそんなことをぬけぬけと申されますな。我々国許を軽んじているとしか思えませぬ」
「いや、いや。それは、何のことはない。もっと学問を学び、知恵をつけることです」
常々、高寛や忠亮と語り合っていることを、昨非は口にした。
国許藩士から声があがった。
「いまさら学問じゃと、何を申されますのか、呆れてことばもならん。やっぱり、江戸表は国許の我々を侮辱しているとしか思えませぬ」
こんどは、抜きんでた国許の奉行が挙手をした。
「若殿は、国許の力量をご存じないのです。まず、御前試合をもよおして、国表と国許の武力をご披露しようではありませんか」
「そうだ、そのおおりだ」
国許たちに騒めきがおこった。
「まだ、そんな遅れたことを言っているのですか、言葉を慎みなされ」
昨非は、厳しい目つきでいつになく声高だった。
それには訳があった。以前、昨非が、江戸から駕籠にゆられて奥州二本松藩、松坂御門をくぐったとき、郭内に荒れている雑木や、野趣あふれる人柄にふれて、やはり国許は遅れていると思った。棚倉、白河といくども国替えさせられて、戦国時代の世が未だに染みついている。やはり、藩政改革の道のりは容易ではないが、やらねばならない。学問を学ぶに若いも老いもなく、二本松藩はこれからであった。
今年は雨不足で旱が予想されている。穀物が不作になれば、百姓衆は年貢減の直訴をするだろう。揉め事は極力さけなければならない、急がねば。まず、手習所を充実させること。昨非の心づもりであった。
式は、朝八時から昼近くまでかかった。午後は酒宴であったが、隠居高寛は忠亮と昨非を連れて庭へでた。
霞池のほとりをまわり、坂をのぼって、初代光重公が愛でた墨絵の御茶屋に入って戸を開け放った。遠くに野火の煙が立ちのぼり、村里は忙しそうであった。
高寛は絵画や骨董を好んだ。そして、綱紀粛正、行政改革、生産奨励、藩士教育を急がせた。しかし、国許の荒くれ藩士たちに、絵画、骨董は目障りで、藩士教育は不得意であり、武力奨励を望んでいる。
だが、武力奨励、これは危なすぎる。徳川幕府の世に、武具をまとった合戦などはあり得ないし、武力で百姓を押さえつければ、巷にまぎれこんでいる公儀隠密の嫌疑がかかる。
高寛は国許藩士を考えていたらしい。
「あのように強い物言いで、百姓を従わせるのは難しい。わしは家臣たちに学問を奨励し、智謀のある家臣に育てたい。忠亮、どうしたものかのう」
「御意に存じます。大殿が弱気になられては、家臣たちはますます高慢になりましよう。決してあなどられてはなりませぬ」
いつも高寛のかたわらに座して、高寛に粗相のないよう気配っている忠亮さえ、思案が及ばないのである。
なにかを思いついたように高寛がふりむいた。
「家臣たちが望むなら御前試合、よろしかろう。家臣の腕前も見ておきたいものじゃ、忠亮どう思う」
正午の陽をあびて、高寛の頬がほんのりと朱を帯びている。
「そのとおりでござります。押しつけばかりではなく。まず、家臣の言い分も聞く耳を持たねばなりません。昨非さま、そうではありませんか」
忠亮は、昨非に賛同をもとめた。
高寛が藩主に身を置いたとき、丹羽忠亮は家老に抜擢された。高寛が手習所の普請を強く望んだので、忠亮は江戸幕府儒官の桂山彩厳に相談したところ、弟子の儒学者岩井田昨非を紹介された。十五年前のことである。昨非は舎人と呼ばれて、すでに五十の老いの域に達していた。
「国許の藩士たちには、戦乱の世の悲惨さがまだ身に染みついておるのです。いっときも早く手習所を開所して、民をおさめる、治者の心得を学ばせねばなりません。御前試合などとんでもございません」
いつもは控えめな昨非だが、力強く高寛に進言した。
三
丹羽忠亮にともなわれて、岩井田昨非が隠居高寛の前に伏した。
「改まってなにごとぞ」
花鳥画を好む高寛は、庭の片隅に今が盛りの茄子を模写しているところであった。
「徳川家康公が子孫繁栄のために、茄子を好んだというではないか。わしもそれにあやかってみたいと思うてな」
筆を置いて部屋の中に入り、昨非の抱えてきた大風呂敷包みが気になるらしかった。
「大丈夫でござります。希望は、毎日、毎日、念じれば、きっと叶うと申すではありませんか」
そういいながら、昨非は御前に伏した。
「昨非さまが、大殿に進言したいことがあるそうです。どうか、目を通していただきとうございます」
忠亮と昨非は、すでに話し合いがすんでいるらしく、忠亮の声は心もち上気している。
昨非は大事にかかえてきた大風呂敷包みを広げた。
「大殿が日頃お考えあそばされていることでございます。平安のころ、戒論辞といい、官人の戒めとして、門石などに刻んだともいわれております。その文語のなかから抜粋したもので、ご覧になっていただきとうございます」
和紙には、たっぷり墨を含んだ筆先で、確り書き込まれた文字が鎮座している。
爾 棒 爾 禄
民 膏 民 脂
下 民 易 虐
上 天 難 欺
「ほおう、昨非、何と書かれてあるのじゃ」
「次のように読むのでございます」
なんじの俸 なんじの禄は
民の膏 民の脂なり
下民はしいたげやすきも
上天はあざむきがたし
昨非は、一語、一語、力強く、なおかつ丁寧に読みあげた。
「それから、意味はこうでございます。お前がお上からいただく俸給は、民の汗と脂の結晶である。下々の民はしいたげやすいけれども、神をあざむくことはできない。という戒めの言葉でございます」
昨非は、高寛をじっと見つめて顔色をうかがった。幾日、幾夜、戒論辞を解読して考え抜いた言葉であった。
はたして大殿のお考えは……。
「そうじゃ、そのとおりじゃ。わしが領民を思う心は、このとおりじゃ、どれ、もういちど読んでみるぞ。爾の棒、爾の禄は、民の膏、民の脂なり……」
高寛は、戒めの文言を噛みしめ、側近たちまでひびく声で、繰り返しながら音読した。
「岩井田昨非でかした。これまでつかえていた澱が吐き出したような気分になったぞ」
賞賛をいただいて、昨非は涙がこぼれそうだった。
やはり、忠亮は怪訝な面持ちをしている。
「その通りと思うのだが、はたして家臣たちは納得できようか。仏の心になど、なれるものだろうか」
忠亮が昨非に問いかける。
「まず、家臣に触れをまわして、戒石銘を知らしめるのです」
「触れなどでは、その場で忘れてしまう。家臣には読み書きの苦手な者もあまたおるのだ。そのような他愛のないことで、領民を救えるとは思えないぞ」
忠亮は意地悪そうに鼻をならした。
昨非が一呼吸を置いた。
開け放された窓の外には松風が吹きわった。
「忠亮さまは、いつぞやの百姓の若者をお忘れでございますか」
「百姓の若者とは、何のことじゃ」
「わしらが渋川村の見廻りから、帰り道のことでございます。あのときに、猪に出くわしましたな」
「うむ……」
「忠亮さまは取り乱して、猪にむかって刀を振り上げたときのことでございます。お忘れでございますか」
「そういえば、百姓の若者に助けられたことがあった、思いだしたぞ」
「あの若者は我々を助けたのではございません。助けたのは猪でございました。親が斬られれば、子は路頭に迷うでしょう。痩せおとろえて死ぬかもしれません。そうなるまえに、若者は猪を追い払ったのでございます」
「まさか」
「そのまさかでございます。餓死で、百姓の親が死んだら、その子らはどうなります。人も猪も、命あるものはみな同じでございます。あの若者は、とっさにそう思ったのでしょう。猪の命を救ったのは、慈悲の心そのものです。忠亮さま、家臣には百姓を護る慈悲の心が必要なのでございます」
昨非のまぶたは涙でぬれている。
「それに、平に、平にと地に伏しましたのも、何らかの事情があったのでしょう。これをごらんくだされ」
懐から折り畳んだ懐紙を大事にとりだして忠亮に手渡した。百姓 平四郎、の文字が浮かび上がっている。
「この文字は、百姓にしてはあまりにも達筆ではありませんか。我が藩には、我が名も書けぬ藩士がおると聞いております」
忠亮は、そっと頬に手をそえた。頬をたたかれた気分なのだろう。
聞いていた高寛が声を弾ませた。
「そんなことがあったのか。わしはその若者に会ってみたい。御前試合に参加させよ、忠亮」
「はっ、御意に……。しかしながら、猪を救うために棒を振りまわしたなんて、いまでも信じられんのだ」
忠亮の口元には、あの時のような嘲笑いが浮かんでいる。
「百姓衆は毎日が忙しいのです。大殿も、ご家老も、百姓をおからかいになってはなりませぬ。御前試合などはもってのほか、百姓はますます牙を剥きだします」
昨非は、必死に上座を諫めた。
蝉が力を振り絞って鳴いている。
しばらく沈黙して、蝉の鳴き声を聞いていた昨非が目を輝かせた。そうだった、戒石銘は門石などに刻むものなのだ。
「妙案がございます。藩士の通用門となっている藩庁前に露出している大石に、戒石銘を刻み込んではいかがでしょう。登城、下城のときに目に触れさせて、否応なしに藩士たちの心に刻み込ますのです」
そこを通るたび、戒石銘を目にすれば自ずとその気になるに違いないと、昨非は誇らしげだった。
高寛は、なるほど、と頷いた。
「どんな手を使ってでも、家臣たちにわしの心を知ってもらわねばならん。辛抱強くやってゆくつもりじゃが、善は急げというではないか、大石を門石とし、ただちに戒石銘を刻ませよ。昨非、頼んだぞ」
昨非が平伏し、面をあげた。
「それから、上さま、お願いがございます」
「なんなりと、申してみよ」
「武士の子でありようと、百姓の子でありようと、人の子に違いはございません。わしは、あのような若者をこの手で育ててみたいのです。必ずや藩の役に立つよう、養育してみたいのです」
「うむ、好きにするがよい」
高寛が去ったのち、昨非は懐から懐紙を取り出して目頭をおさえた。
四
上水原村加藤屋敷に白装束の祈祷師らしきが訪ねてきたのは夕暮れだった。門前でなにやら呪文を唱えながら、敷石を踏んで玄関にたった。呪文の声もいつしか高くなり、玄関脇の格子戸に人の気配を感じ、平四郎が入り口の戸を引くと、三人の祈祷師がすばやく入りこんできた。
「さすがは、長の屋敷だな」
好奇の眼差しで家のなかを見まわした。
ひろい土間に堂々とたつ大黒柱。磨きぬかれた板張りが黒光りしている。囲炉裏の自在鉤には大鉄瓶が重たそうに吊り下がっている。
戸主源右衛門が横座にすわり、正之助と平四郎の兄弟が左右に座して対応した。
老祈祷師が源右衛門を見据え、後の二人は威嚇するように立っている。老祈祷師が山谷袋から護符をとりだして上がり框のうえにおいた。護符は神仏の加護を願いうやまうもので、戸主をひきつけるには十分な威力をもっている。
「源右衛門さん、いま二本松城中がどんなだか、ごぞんじか」
「いや、わしらは城中のことまでは関心がない」
知らないかのように振舞うと、
「それでは、教えてやろうではないか。わしなどは、はらわたが煮えくり返るおもいでござる」
老祈祷師は低く太い声で語りに落ちた。
「丹羽高寛の隠居は、藩の改革に乗り出したのはよいのだが、この干ばつで財政のとぼしいときに、手習所などというものを建てて、国許の藩士たちに学問を押しつけているそうだ。いわゆる国許を愚弄しているということだ。その挙句に……」
老祈祷師は、山谷袋のなかから折り畳んだ和紙を取り出して上がり框にひろげた。
「これをよくみて見ろや。何と書いてあるかわかるか。おい、若造よ」
見るようにと、平四郎に手招きをした。
爾 棒 爾 禄
民 膏 民 脂 ……
平四郎が身を引いた。
「これは……」
漢語の羅列はわかるが、解読まではいかなかった。
祈祷師は、自慢気に指で漢字をなぞりながら読みあげる。
「これはな。百姓からは、脂汗を絞るだけ絞って、藩の財政にせよ、と書いてあるのだ。隠居藩主と岩井田昨非という舎人は、こうして国許の藩士を責めたあげくに、百姓を泣かせているのじゃ。この干ばつの暑い時期に、さらに脂汗を絞れといっておるのだ」
「そのようなことは初耳だな」
源右衛門は眉根をよせた。
どうもこの祈祷師たちは胡散臭い、平四郎は祈祷師連中を睨みつける。それを無視するように上がり框に腰をおろした老祈祷師は、身体を捻って身をのりだした。
「いま幕府領の鼓ヶ岡村、天明根村、八丁目村、そして下水原村を廻ってきたところだ。百姓衆は猛り立って怒っていたぞ。明日にでも筵旗をたてて直訴しなければならんと、わしにけしかけるのだ。わしはな、そんな百姓衆をしずめてきた。何事も熟さねば事を仕損じる。時機を待てとなだめておるのだ」
それにしても、隠居藩主をののしるこの祈祷師連中の目的は何事であろう。迂闊にどうのこうのと口が裂けてもいえない。もしや、百姓衆をたぶらかして百姓一揆を企んでいるのではないのか。そうであれば由々しいことだ。暗灯りの家のなかで、後ろに控えた祈祷師たちが薄ら笑いをうかべているようだった。
源右衛門は世故に長けている。これ以上の関わり合いは危ないとみたのだろう。
「正之助」
以心伝心で、親子はいつも息が合っている。
「承知しました」
正之助が奥から戻ると、盆の上に銭をのせて、祈祷師に差し出した。
「ありがたく御札をたまわり、御祈祷料を捧げとうぞんじます」
正之助が頭をさげると、すかさず祈祷師は山谷袋に銭をしまいこんだ。
「これはありがたい。よそ村の百姓衆の考えに賛同とみなしてよろしいかな」
「まて、今夜のところは話だけ伺っておきましょう」
「さようですか。近々また参ります。八丁目村の百姓衆の怒りが、源右衛門さんの身に降りかかることのないように、お気をつけなさってください」
祈祷師は、意味ありげな笑みをうかべて和紙をたたんだ。
平四郎が門前まで見送りに出ると、老祈祷師が振り返った。
「若造よ。まもなく、世直しが始まるのだ。ようく鎌を研いて待っておれ」
月明かりの中に、深い皺の青白い皮膚の顔、まるで地獄からの使者のような男。背筋が凍りつくような身震いがした。祈祷師たちが暗闇に消えても、金縛りにあったように動けなかった。
五
加藤屋敷に二本松藩家老忠亮の使いとして、郡奉行が訪ねている。先日は、得体の知れない、祈祷師と名乗る連中が来たばかりだ。
幕領は不作の年でも減免はなく、否応なしに例年とおり年貢を取り立てる。この旱では、ことしもどうやら二本松藩を仲介として交渉しなければならないだろう。いくらかは減税になることもあるので、郡奉行を粗末には扱えなかった。
郡奉行は稔ぐあいを口実に酒を催促した。
「今年の稔りはどうだ。源右衛門」
あぐらをかいて、茶碗をぐいっと握って酒をのみほした。
当家では、源右衛門が酒と漬物で二本松藩士を持て成すのがならわしになっている。郡奉行は酒を好み、近ごろは徳利が三本から四、五本にふえていた。それでも、百姓から酒を強要してはならぬと、達しがあったようで、すこしは遠慮気味だった。
「夏のさかりに水不足で、収穫は厳しくございます」
「やはりそうであろう、こまっておるのは二本松藩も百姓衆と一緒じゃ。幕府から日光東照宮の修理を依頼されて、藩の財政が逼迫しておるのだ」
「郡奉行さま。また無心でございますか。藩の財政がどうのこうのいわれても、無い袖はふれませんぞ」
「そのように、目くじらを立てることもあるまい」
漬物をかみながら、郡奉行は機嫌がよかった。
「それより、源右衛門。百姓どもに不穏な動きがあると聞いたが、心当たりがあるか」
「不穏な動きとは、何の事でございましょう」
「隠し事はならんぞ。祈祷師らしきものが、村々を徘徊しているそうではないか」
郡奉行はさらりと探りを入れてくる。
「わしらには、一向に存じません」
白を切った源右衛門には心当たりがある。
白装束で祈祷師をかたる得体の知れない連中が、幕府領の村々に出没して、百姓になにやら知恵をつけているらしい。わが屋敷にも入り込んで、二本松藩隠居藩主を愚弄したが、口外できることではなかった。
郡奉行の訪いの目的は何事であろう、まさか百姓一揆の探りではあるまいが、ときどき鋭い目つきをして、家のなかを見まわす心意がつかめない。しかし、それなりに何かは感じ取っているのだろう、掌で酒のしずくの垂れた口元をぬぐって、穏やかな顔つきをした。
「まあ、それは、それでよし。きょう立ち寄ったのは別の要件だ。ところで梅の収穫のころと聞かされてきたのだが、上水原村の若者で、城下から塩を買いつけた者はおらぬかな、叺入りの塩だそうだ」
源右衛門は目を瞬いた。
だいぶ前のことになるが、梅の実の収穫に合わせて、平四郎に城下町から塩を買わせている。平四郎からは何も聞かされていないが、それがどうしたというのか。
「息子に心当たりがございます」
「やはりそうか。そなたの息子だったか。塩など叺で買うのは源右衛門のところぐらいであろう。少々、訊ねたいことがあるのだ。息子はおるか」
郡奉行は、がらんと開け放された家のなかをまたもや見まわした。見まわしたのは、平四郎を探してのことだろう。
「なにか、不祥事でも仕出かしましたか」
源右衛門が空徳利と漬物碗のお盆をとりはらった。
「源右衛門は、相変わらず鼻っ柱が強いな。そんなに邪魔者扱いすることもあるまい」
郡奉行が酒臭い息を吐いて苦笑した。
平四郎なら屋敷の周りで兄と作物の手入れをしているはずである。
源右衛門が、おい、と台所に声をかけると、台所の隅から、はい、と正之助の妻お信の声があがった。聞き耳を立てていたらしい。
「百姓仕事の手を休めさせて、長話は少々迷惑ですぞ」
「そのように目くじらを立てることもあるまい。そのような膨れっ面は、これで何度目だ。きょうは吉報、吉報をもってきたのだ……」
郡奉行は、城中の出来事を小出しにしている。百姓一揆と塩と、どんなかかわりがあるのだろう。
やがて、長男の正之助と弟の平四郎が裏口から入ってきて、板張りの台所の端に正座した。兄弟そろってあいさつをした。
正之助は面長な知的な顔立ちだが、平四郎はいぶかしい目つきである。いずれも、鍬で鍛え上げた胸板や大腿の筋骨は、二本松藩士に劣らぬ容姿であった。郡奉行は気後れの表情をした。
「おお、兄弟そろって頼もしいぞ。先日のことだがな。村境で二人連れの武士に出会ったのは、どっちだ」
唐突なことである。今をさかのぼり、もしや、猪の騒動のことではないかと、平四郎は思った。
「たしかに御武家さまとすれ違った覚えがございます」
平四郎が頭をさげた。
「そこで何があった」
「猪を追い払った記憶がございます」
「ようやく解せたぞ。そのときの二人連れとは、二本松藩の御家老と、儒学者の舎人だ。馬か駕籠で廻ればよいものを徒歩だぞ。八丁目宿場から渋川村に足をのばした帰り道らしい。たしか猪とかいっておったが、ほんとうは、お忍びで遊郭などに休んだのであろう」
郡奉行は卑猥な口元をゆがめると、まだ飲み足りないらしく杯に目を落とした。
源右衛門には、何のことかわからぬが、吉事とも思えなく、平四郎をうながした。
「平四郎、猪とは何のことだ」
「いつやら、猪を追い払った記憶があります。あのような些細なことで、お礼をくださるとは何かの間違いではないかと」
聞き耳をたてた郡奉行が目を剥いた。
「いや、間違いではないぞ。特に舎人は、猪を逃がしたその心こそが、国許藩士の足りないところだと、わしらを侮辱したのだ。あっ、思い出したぞ。それから、このような若者を手習所で学ばせたいとも言ったそうだ」
筋のとおらぬ話は酔いのせいであろうが、祈祷師、郡奉行、百姓一揆、城奉公と、源右衛門にとって、気の重いことばかりが起こっている。
源右衛門の顔色を見てとった正之助が父親をかばった。
「郡奉行さま。このように旱がつづいて収穫も半減と予想され、百姓衆も飢えをしのぐには何らかの方策を講じなければならない大事に、平四郎ごときに、何のことやら解せません。やはり目的は百姓一揆を探りにきて、平四郎は人質のご奉公ではございませんか」
正之助は素直になれなかった。
「こら、正之助、何をぐだぐだ並べておる。わしら国許藩士は気が短いのだ。楯突くと上水原村も不審な動きありと、疑われるぞ」
郡奉行は、源右衛門親子に有無をいわせぬ態度で口を封じた。
「百姓仕事の忙しいのはわかるが、平四郎はなるべく早く城奉公に参られよ。城門番兵に岩井田昨非と申すがよい。それから源右衛門、急な話ですまなかったが、案ずることはないぞ。奉公は、一年、二年、そのつもりで覚悟をしとけ」
郡奉行は、せわしなく草履を突っかけると不穏な空気を残して去って行った。
加藤家の祖は平泉藤原の末裔にあたる。奥州水原郷に居をかまえ、在地領主として栄えていた。
伊達氏が室町幕府から奥州探題職を任ぜられ、奥州に侵略したときに、伊達氏に従った。やがて伊達氏が勢力拡大して、奥州制覇をめざしたとき、伊達稙宗、晴宗の親子騒動にまきこまれた。父稙宗に与したが、代がかわると子息晴宗に没された。伊達氏からみれば、在地領主は寝首を掻くかもしれない油断のならない存在だったのだろう。
いまではその支族が領主として密かに文武を継承して家訓をまもってきた。加藤家はその在地領主で、これを二本松藩に知れると、やはり目の敵にされる恐れがある。平四郎の安易なおこないが禍をもたらすかもしれないのだ。
親子三人で火のない囲炉裏をかこんだ。
「猪がどうしたというのだ、平四郎」
源右衛門が平四郎を睨みつけた。
平四郎は、あの日の二人の武士との出会いを語りだした。何気ない行動がこんな大騒動になるとは想像に余りある。
……聞き終えて、源右衛門は眉根を寄せた。
「それだな。百姓が棒きれで猪の群れを追い払うなどは只事ではない。二本松藩士の前で武術の技を披露したと同じ事ではないか。どうしてそんな酔狂な真似をしたのだ」
「猪が斬られれば、瓜坊は路頭に迷います。見過ごすわけにはいかなかったのです」
「そのことで、先祖伝来の秘匿があばかれ、万が一のことだが、百姓一揆の首謀者とでも疑われたとしたらどうする。とんだ不覚をとったものだ」
黙って聞いている正之助に向かって、源右衛門が念を押した。
「よいか、正之助。村に入るよそ者は厳重に注意しておけ。それから平四郎はなるべく早く城に行くのだ。禍は、命に替えても取り除かなければならんぞ。心得ておくのだ」
兄の正之助は幼いころから思慮深い性格で、小作人の暮らしは領主が支えるものと、平四郎によく語ってきかせた。塩、味噌なども小作人のことまで考えて仕込んでいる。亡母親ゆずりで質素な暮らしを、妻とともに強いてきた。加藤家の嫡男としては十分な裁量をもちあわせている。そんな正之助だが、平四郎の城奉公だけは納得できないようすだった。
「考えすぎかと思うのだが、あの郡奉行は、我が強すぎる。それにあの卑猥な顔は信用がなりません。そうとうな食わせ者です。すでに、城中では百姓の不穏な動きを感じ取っているに違いなく、平四郎を百姓一揆の人質に取るつもりでしよう」
源右衛門が頭をふった。
「いいや、あの郡奉行は、賢い人物とはおもえぬが、狡くもない。城中なんてみんなそんなものだ。捨てる神あれば拾う神ありと言うではないか。誠意を尽くせば必ず報われる。悪いことばかりではないぞ、平四郎」
「城奉公といわれれば、望むところではありますが、それが人質なれども、世のためになれるのなら本望です」
狡いことも、やましいこともした覚えがなく、城中に上がっても、恐ろしいものは何もない、平四郎の目尻がつりあがっている。
「そのとおりじゃ、平四郎」
源右衛門がかすかな笑みをうかべた。
いつしか風が欅の枝を鳴かせている。
六
稲作、畑作と、季節に追われて百姓仕事には切りがない。
早々に城奉公せよ、と源右衛門にうながされ、平四郎は夜明け前に朝食をすませて、二本松城へむかうことにした。
正之助が朝飯まえの野良仕事を休んだのは、平四郎を見送るつもりであったろう。心配するなって、すでに平四郎の心は二本松城内にあり、心身とも高揚している。
囲炉裏で煙草を吹かす源右衛門は、辛気臭い顔で煙管の雁首を強く叩いて、しばし無言であった。
平四郎は風呂敷包みを肩掛けにした。上がり框に正座して見送るお信の眼差しがかげっている。
「お父さまの袴、よくお似合いですよ、平四郎さん。風呂敷包みは、さしあたっての衣類と巾着が入っています。それから、お登世さんには何と申しておきましよう」
お信は加藤家の嫡男に嫁いで十年余。いまではすっかり加藤家の台所を取り仕切り、二人の子を育てている。そんな多忙に追われながらも、平四郎が八丁目村、杉山家嫡男の妹、登世に好意をよせているのを見抜いている。
「お登世は親友の妹です。姉さまは思い違いをなさっておいでです。御用がすめばすぐにもどりますので、何の心配もいりません」
内心を見透かされて、平四郎はどきりとした。武士にあこがれ、夢をいだいたこともあったから、たとえ叶わずとも城中に招かれたことは、この上なく誇りに思っている。
平四郎は、言葉すくなに家族との別れをすませ、強い足取りで屋敷をあとにした。
姉さまは、父親譲りの袴が似合いだといわれたが、脛が丸出しで歩くたびに風がそよぐ。これで登世に逢うには少し恥ずかしい気もするが、それでも袴姿には魅力があった。
屋根に立ち昇る煙で農村の朝がはじまる。途中の神社の鳥居のまえに甥姪がまっていた。腰に棒を差して、侍気取りの兄の袖を、妹がしっかりにぎっていた。
「よっ」
平四郎は甥姪の頭をなぜた。この孫たちも元気に育てば、わしなど居らんでも加藤家は安泰である。
「おじさま」
妹が涙を溜めている。
「そうじゃ、みやげは、城下町の饅頭にしょう」
この甥姪に恥ずかしくない城奉公をめざして、志を遂げてみせるぞ。曲り道でふりむくと、まだ甥姪が手をふっていた。
芒の穂が朝日に映えてゆれていた。
城下に行くには渋川村に入るのが近道だが、遠回りしてでも八丁目村をとおることにした。
八丁目村は伊達氏が築城した八丁目城跡があり、奥州街道を挟んで八丁目宿場がある。町並みは旅籠屋、着物屋、鍛冶屋などが軒を連ね、裏道には女郎屋、茶屋などもある。
陽が射したばかりのこの時刻、八丁目城下の家並みには雇人たちがせわしく出入りする。馬方や駕籠担ぎや街の世話人など、宿場街ならではの仕事がいそがしそうだった。
旅籠屋から吐きだされた武士や旅人たちで奥州街道はにぎわいをみせている。
八丁目村の領主杉山家の前にたった。童のころ源右衛門に連れられて立ちよったのが最初だった。それが縁で一つ年長の杉山重太郎と親友になり、城下の成林寺で手習いや棒使いなどを競うようになっていた。
杉山家の母屋は太い柱が組まれ、城下町独特の狭い間口から奥にのび、石灯篭や盆栽などの内庭が涼しさをよそおい、さらに、米蔵、味噌蔵の壁が建ち、町家風情の住まいだった。
平四郎に気づいたこの家の賄い女が、前掛けで手をふきふき一皮目を丸くした。今年に入ってはじめてのお訪いだった。
「おや、平四郎さんでないかい。お待ちくださいよ」
奥に声をかけた。
「お登世さん、上水原の平四郎さんだよ」
杉山家の嫡子重太郎に会いに寄ったのだが、何を勘違いしたのか、妹を呼んだのである。平四郎は耳たぶに火照りをかんじた。
登世が姿をみせた。小柄な体つきで、ふくらみのまぶたと、鮮やかな唇の色がきわだって、初々しい顔立ちをしている。岡火鉢の鉄瓶を傾けて急須にそそぎ、茶を淹れてくれた。細やかに働くしぐさを、平四郎は上がり框に腰をおろして愛おしくながめた。
一杯の朝茶は喉の渇きをいやしてくれる。登世に見つめられると、なぜか恥ずかしく、茶の作法もなく一気に飲んだ。
「旨かった……」
胸が高鳴るばかり。目を逸らせて、そのあとの労いはいえなかった。
重太郎が駆け込んできて、茶をすする平四郎と脇にすわる登世とのなかを怪しんだ。
「平四郎、いま村々は大変なことになっているのを知らないのか」
「知るものか。わしはこれから城奉公だぞ。しばらく御無沙汰するからあいさつによったのだ」
重太郎は登世をちらりと見た。
「平四郎、ここでは何だから、境川までお見送りしたいのだが」
境川とは幕府領八丁目村と二本松領の境を流れる川のことである。
平四郎は、残りの茶を飲みほして腰をあげた。
「お登世、またくるぞ」
「お待ちしております」
「なに」
重太郎がふりむいて登世をにらんだ。
「お登世、平四郎に甘えるんじゃねえぞ。いま、村の男衆は忙しいんだ」
二人は連れ立って奥州街道をあるいた。空は澄んで西方の安達太良山がくっきりと姿をあらわしている。
「平四郎、まもなく百姓一揆がはじまるぞ」
「知るもんか」
「祈祷師と名乗る男たちが村々をまわって、二本松の殿さまの悪口を言い触らしている。それを百姓衆は信じて怒っているんだ」
「悪口とはなんだ」
「江戸から来た舎人が、百姓からは脂汗を絞るだけ絞って藩の財源にあてろと、家臣たちの尻を叩いているそうだ」
その祈祷師とやらは、加藤屋敷にも来たことがある。不気味な面構えをしているのを平四郎は思い出した。
「それと、もうひとつ、六尺三寸竿の土地を、六尺竿で測りなおすそうだ」
「土地がへるのか」
「そのとおりだ。二本松領の村々の百姓衆が怒りだして、毎晩、神社や寺に集まっているそうだ。聞いて驚くな、その人数は千とも、二千ともいわれているんだぞ」
「そりゃ、二本松藩も大変だな、驚くなといわれても、驚かない訳にはいくまい」
「二本松がそうすれば、川俣代官だって黙ってはいない。代官領の八丁目村、天明根村、鼓ヶ岡村にも何等かの締め付けはくるだろう、油断できないぞ」
重太郎が南の山をにらんだ。その方向に二本松城があった。
「それから、こうもいったぞ」
「なんだ、はやくいわんか」
「上水原村だけは異様な雰囲気だ。あの村は、会津藩の仕事を請け負って、会津領から吾妻山峠をこえて信夫領までの荷車道を補修して稼いでいる」
会津藩は米俵をつんだ荷車を牛にひかせて、福島の阿武隈川の舟着き場まではこぶ。川を下り、途中で船に積みかえて江戸に送っている。
「そのとおりだ。百姓衆の文銭稼ぎだ」
「それに、御山の萱や篠竹を密かに売りさばいて懐は豊かだ。上水原村だけはあつかいにくい。二本松藩を転覆させようと企んでいるのではないか、と祈祷師が触れまわっているんだ」
平四郎は足を止めた。
「それは、嘘だ。天領の財産に、手は付けてはいない。二本松藩の転覆などもありえない。でたらめは許さん」
源右衛門の素気無い態度が、祈祷師は気にいらないらしい。幕府領四村の不満を上水原に押しつける魂胆らしい。
「八丁目村も上水原村も、飢饉の苦しみは一緒だ。信じてくれ、重太郎」
「うん、信じている」
二人はつよく手を握って別れをおしんだ。
重太郎に見送られて境川を越えた。日本柳、油井をすぎれば城下町にはいる。
町家通りを覗いたことがあっても、城郭は初めてである。箕輪御門にたち、東手の藩士たちの通用門にたった。
平四郎など見向きもせずに、次から次へと藩士たちが門をくぐるのを見て、すこし気遅れた気分になった。やがて、人が途切れたのを見計らって、思い切って頬のこけた藩士にたずねた。
「おたずね申します。岩井田昨非さまとおっしゃるお方をご存じないでしょうか」
「なに、岩井田」
藩士が足を止めて不機嫌な顔をした。
「岩井田に何の用があるのだ。気に喰わぬやつじゃのう」
じろりと目を剥いた。
「それ、そこの大石を見やれ。戒石銘が刻んであるだろう。何と書いてあるかわかるか。われわれ家臣に、もっと学問を学べといっておるのじゃ。こんな石に文句を刻んで、朝夕、それも毎日じゃぞ。家臣を無能者と侮辱しておるのだ」
藩士は、唾を吐き捨てるようにいいながら通用門にはいった。
平四郎は少し戻って大石をながめた。
あの日、修験者が見せた和紙の文言とそっくりではないか。修験者はこれを書きとって村々を騒がせているのだ。不気味な笑いが思いだされて身ぶるいがした。
「どうなされましたか」
ふりむくと、まだ童顔のぬけきらぬ少年藩士が立っていた。
「岩井田昨非さまとおっしゃるお方を訪ねてきたが、どうも気が引けるのです」
百姓が城中に入るのは、やはり不謹慎ではないかとおもうが、大手を振って家を出てきたからには、いまさら引き返すわけにはいかなかった。
「ああ、岩井田先生のことでございますね。わたしたちの恩師でございます。この坂道を上ったところがお住まいですが、この時刻、すでに先生は手習所におられます。先生はいつも早いのです」
少年藩士は門兵に何やらことわりを入れてもどってきた。
手習所は通用門から入った並びで、その奥に武術道場があり、賑やかな声があふれている。手習所の中をのぞいてみると、少年、若者、中年の藩士がそれぞれに机を並べて、授業の準備にとりかかっていた。
聞きつけて、小柄な身体にやさしい眼差しの武士が出迎えてくれた。猪騒動のときの人物であることはすぐにわかった。この方が岩井田昨非さまであったか。
昨非は、平四郎をみると愛好をくずして、
「よくぞ参られた。中へ、中へ」
と手招きをした。
七
平四郎が岩井田昨非の従者となってから、仕事は手習所や棟違いの武術道場、庭の掃除など。こまごまと惜しみなく働いた。ときには机に向かうことも許されていた。
塾生が帰ったあとで、道場の板床を拭いていると、どやどやと床を踏む足音がひびいた。壁際に身をよせてみまもると、国許の若い藩士たち十数人が横柄な態度で道場の中ほどに座した。何か不服があるようで、しきりに言い合をしている。
一時が経って、ものものしく家老忠亮と岩井田昨非が道場に現れた。忠亮が床の間に背を向けて座り、かたわらに昨非が座した。先ほどまでの騒がしさはしずまり、忠亮が若者たちに一瞥をくれると重苦しい囲気がただよった。平四郎がこの場を離れようと膝を立てると、
「平四郎」
忠亮に呼び止められて、その場に居据わった。
忠亮が若者たちをねめつける。
「不服があるのなら申して見よ」
どうやら忠亮に談判を申し込んでいたようだ。反抗すれば、場合によっては左遷もありうる、若者たちは覚悟の上のことだろう。
太い眉に大きい目玉をぎょろりとむいて、藩士が膝行した。聞くところによると、この藩士は勘定奉行の嫡男で丹羽蔵之進といい、二十四、五を超えたぐらいであろうか、丹羽の荒武者といわれている。
「御家老にお尋ね申します。城中の役職などをかんがみますと、国表の藩士たちは、格別の恩恵にあずかっているように思うのですが、これは国許の邪推でしょうか」
「何を申しておる。藩を立て直さなければならぬ大事なじきに、家臣に依怙贔屓すればどうなる。真面目な家臣たちの働く意欲を削ぐことになるのだ。理屈をこねるのもいい加減にせい」
「そうでしょうか」
蔵之進は平四郎を顎でしゃくった。
「このように得体の知れぬ者をはべらせて、国許の藩士を侮辱しているとしか思えません」
このような荒くれ藩士をどのように説得すればよいのか。古書に前例などはみあたらない。黙って聞いていた昨非が咳払いをした。
「まず、家臣には学問を習得させたのちに力量を見きわめ、その能力をいかす地位に据えるのでござる。御家老にむかって言葉をつつしみなさい」
「学問、学問と仰せですが、それでは武術の心得えを何と思われますのか。武人も、人としての修業は積んでおります」
忠亮が嘲笑った。
「さようか、それでは剣術の腕前を拝見いたそうではないか。順次、腕の立つものから勝ち抜き戦とし、最後に、そこの平七郎が立ち会うことにいたそう」
藩士たちが顔を見合わせてざわついた。家老の面前で試合に勝ちぬくことは、戦場で敵の首を討ちとることに指摘する。それぞれの若者の顔には殺気がみなぎった。
「それでは、それがしが」
といって、最初の藩士がつかつかと歩んで、板壁にかかった竹刀をにぎった。次の藩士も負けず劣らず竹刀に手をかけた。
やっ、とっ、の掛け声が道場にひびいて、立ち合いは激しい竹刀の打ち合いになった。
勝負は今後の出世に関わると、藩士たちは死に物狂いの形相である。竹刀の打ち合い、足の運び、剣先の動きを、平四郎は息を殺して見つめている。胸元がじっとりと汗ばんでいるのを感じた。
藩士たちの試合が終えるころには、すでに一刻がすぎていた。期待とおり平四郎の相手は蔵之進である。これまでの試合を見る限り、蔵之進は腕力でねじ伏せて勝利したようなものだった。
大木の根が張り巡らせた足場の悪い神社の境内が、平四郎の剣術の稽古場だった。相手はもっぱら百姓の童どもであったが、人知れず、屋敷内の稽古場では、身のこなし、足の運びと、源右衛門の木刀は容赦なく平四郎の身体を打ち据えた。身体を鍛えるのは、百姓仕事の他に無し、と口癖だった。
「次、平四郎」
家老忠亮の声がして、平四郎は我に返った。竹刀をにぎって道場の中程まで歩んだ。
正眼に構えた蔵之進が薄ら笑いをうかべている。肩の盛り上がり、腕骨の太さ、まるで闘牛に潰されそうな恐怖があった。
平四郎は、竹刀を中段にかまえると、両腕を前方に伸ばして、剣先で相手の左眼を射止める。それを相手がきらって足を移す。平四郎の剣先が左眼を追いかける。板張りの床で足の運びは順調だった。やがて、蔵之進が痺れを切らして剣先を動かした一瞬、平四郎は右足に左足を沿わせて身をかわした。竹刀を手放して床に両手をついた。
「参りました」
勢いあまった倉之助がたたらを踏んだが、瞬時に身体を立て直して、平四郎の背中をしたたかに打ち据えた。
国許藩士が、おっ、歓声を上げた。
試合の結果は、国許の勝利となったが、蔵之進はなぜか、不平な顔つきをしている。
道場の外にでると、忠亮はいかにも残念そうであった。
「平四郎の意気地なし」
昨非に向かって不満をこぼした。
「いや、あれでよいのです。あのとき、平四郎が勝利して何になりましょう。勝てば、国許勘定奉行親子の怒りは、ますます殿さまに向けられます。これで勘定奉行の機嫌も幾分おさまれば、殿さまの目論見も一歩前進かと存じます。そう思いませんか」
天を仰ぐと上弦の月が南の空にうかんでいる。
忠亮と別れて、我が家に向かう坂道。平四郎でかしたぞ、昨非の足取りはかろやかだった。
「岩井田先生でございますか」
呼ぶ声がして、どきりと立ちどまった。薄い月明かりのなかに、人影が達磨のように座っている。
「それがしは、丹羽蔵之進でございます」
「そのようなところで、蔵之進、何をしている」
「先生、お許しください。先ほどの平四郎と申す若者との試合は、それがしの負けでございました」
「過ぎたことだぞ」
「己れが勇み足でたたらを踏んだとき、勝敗の決着がついたのです。己れは負けた悔しさに、若者をしたたかに打ち据えました。これが真剣勝負なら、無抵抗の若者を斬り捨てておりました」
蔵之進の声が涙に濡れている。
「月を仰ぎ、夜風に吹かれたら、己れの卑怯な行為が情けなく、涙がとまりません。どうか、お許しください」
「なにも悔やむことはないぞ、立ちなさい」
蔵之進が立ち上がると、目の前に獣が立ちふさがった気分だった。
「それにしても、あの若者はどうして参ったといったのか、いまだに解せません」
「わからんで当然じゃ。平四郎はこの試合など、どうでもよかったのじゃ」
「どうでもよいことに、わしらは肩肘を張っていたのですか」
「そういうことになるな」
昨非はうなずいてみせた。なによりも国許藩士丹羽蔵之進が心を開いてくれたのがうれしかった。
「わしは修業が足りんのです」
「そんなことはない。もう、蔵之進は真の道を悟ったではないか」
「悟り……。それがしにはわかりません」
「いま流した涙こそが、我が藩に必要なのじゃ。どうだ、このままわしの家に来て一献いかがかな」
「先生……」
坂を曲がると、家の灯りがほのかに明るかった。二人の心は灯りに向かって駆け足になった。
八
幕府領百姓の不穏な動きがとうとう行動を起こしたのは、それから一ヶ月ばかり後であった。やはり、先導したのは修験者と名乗る男たちで、鼓ヶ岡村、天明根村、八丁目村、上水原村、下水原村の五ヶ村、二百人あまりの百姓衆が、徒党を組んで境川の橋をこえて二本松藩領に入りこんだ。蓆旗をかかげ、竹槍、山刀、猟銃などを手にして、今にも城下へ攻めよせる勢いであった。
城中は騒然となった。国許藩士たちは、兵を出陣させて一気に揉潰してしまえと、力んでいるが、隠居高寛は、幕府の監察をおもんぱかりに、なんとか話し合いで穏便におさめたいと、家臣の説得に苦労した。いまになってなお、国許派と江戸表派は威信をかけて意見を戦わしているのである。
手習所の脇にある武器庫の戸も開け放され、五十人の鉄砲足軽が鉄砲を担ぎ出した。
箕輪御門前の人溜りには、家老丹羽忠亮、岩井田昨非、勘定奉行たちが騎馬で待ち受けて、目指すのは塩沢村の国境あたりになる、信夫隠しの森のなかに百姓衆が潜んでいるらしかった。
騎馬隊が進んだ。後列に鉄砲足軽隊、槍足軽隊、足軽隊が隊列になってつづいた。
この峠を越えて、森の裾を流れる小川あたりが合戦場になるのだろう。遠くには、狼煙があがり殺気にみちた人影の動きが見え隠れしている。
忠亮が馬の手綱を引いた。
藪のなかにひしめく百姓衆を目の前にして、対策をとる手立てがない。一発、二発と鉄砲を放ち、脅して解散させるより策がないのではないかと誰もが思った。
しかし、ここ二、三年の不作で餓死者が増え、百姓衆はこの一揆に命を懸けるつもりであろう。脅しだけで引き下がるとは到底思えない。しかし、同情すれば、幕府から依頼されている東照宮の普請も、藩士への棒録も頓挫する。勘定奉行が嘆くのにはこのような訳があった。
足軽兵のなかからひとりの若者が駆けだして、忠亮の馬の足下に土下座した。必死な形相で馬上を見あげた。
「お願いがございます」
「どうした、平四郎」
「あの百姓衆に鉄砲を向けるのは止めていただきとうございます。どうか、どうか」
勘定奉行が不機嫌に馬上からねめつけた。
「歯向かってくる奴らに、鉄砲を撃つなとはどういうことだ。そうか、貴様は百姓だったな。百姓衆と内通でもしておったか」
「内通など、そのような卑怯な真似は一切しておりません。勘定奉行さま、向こうには、わしが一人でまいります。鎌を捨てるよう説得いたします。どうか、どうか、お許しいただきたいのです」
「なに、貴様ひとりで一揆を鎮めると申すか。これは前代未聞の笑い話だ。腰をおろして見物しろということか」
勘定奉行が下馬して笑った。釣られて忠亮も笑った。
昨非は、この様子をじっと見つめている。そして、いつぞやの猪を思い出していた。平四郎はましらのごとく飛び出して、猪親子を助けたのだ。こんどは百姓たちを助けようと必死なのだ。
「もし、それがしが為損じたら、そのときは手を挙げて合図します」
平四郎の顔は蒼白だった。
昨非は忠亮の顔を見やると、頭をさげて無言で許しを請うた。
「そうか、平四郎。しばらく時を稼いでくるか。それまで鉄砲組は控えさせよう」
忠亮は勘定奉行を制した。
平四郎は、打刀を腰に絞めなおして大股で強気に歩いた。こちらはひとりとみて見くびったか、鎌や棒を掲げた百姓衆が、一人、二人と藪の中から姿をあらわした。平四郎は一気に小川を飛びこえた。目指す群衆のなかから、ひときわ目立つ白装束の男三人が近寄ってきた。
「お主は、何者だ」
男は槍を突き出して威嚇する。平四郎はかまわずに歩み寄った。見覚えがある。やはり、この男たちであったか。一揆がどうのこうのと文句を並べて、ゆすりたかりにきた祈祷師そっくりではないか。もしも、百姓一揆に賛同しなければ、源右衛門に禍が降りかかるだろうと、威したことを思い出していた。
「一揆の首謀者に用事があって来たのだ。首謀者でないなら、引き下がっておれ」
「生意気なこと抜かすな。首謀者はわしだぞ。若造、いまなら許してやる。さっさと失せやがれ」
「一揆の首謀者は、やはりおぬしか、なぜこんな騒動を起こした」
平七郎は首謀者の顔を脳裏に刻んだ。
「あの戒石銘には我慢が出来ぬ。このように百姓衆が飢餓に苦しんでいるのに、絞るだけ絞れとは何と惨いことをいうんだ。我々は暴政をいさめて、さもなければ二本松藩を国替えさせる覚悟だ。邪魔する奴はただでは置かぬ。そこを退け、退けといっているのがわからんのか」
「藩では鉄砲五十挺を構えているんだぞ。さっさと槍を捨てて、村の代表者と一緒にわしについてこい」
「馬鹿を申せ。百姓を鉄砲で打ったらどうなると思う。幕府から狙われて二本松藩は取り潰しだぞ。そうなれば、わしらの思う壺だわな。おや、てめえは加藤屋敷の平四郎だな。ほんとうのことを教えてやろうではないか。在地領主源右衛が百姓一揆の首謀者だぞ」
「嘘をいうな。おぬしは、祈祷師などと騙っているが、ほんとうはただの浪人だ。浪人がこんな大それたことをするはずがない。正直に申せ、誰の指し金だ」
「そんなくだらんこと、つべこべ言うな。藩が潰れるのを望むのは、幕府、会津、三春、たんとおるのだ」
突然、浪人は槍を構え直して突いてきた。
「赦すものか」
平四郎は素早く身をかわし、槍の柄をむんずと握って強く引きよせた。浪人が前のめりになったところを、平四郎の刀の先が円を描いて袈裟斬りにした。浪人は悲鳴を発して干しあがった小川に横ざまに落ちこんだ。
息を殺して見ていた百姓衆からどよめきがあがった。
次の浪人は、平四郎を両脇から挟み討ちにするつもりらしい。ふうふう息を荒らげながら、刀がふるえている。
平四郎に慌てる素振りはなかった。すでに度胸が据わっている。突進してくる二疋の猪を払うつもりで、さらりと身をひるがえして刀を振り下ろす。男は血を噴きながら逆さまに小川に落ちた、瞬時に、平四郎の刀が逆袈裟懸けに舞った。つぎの男は土手を血で染めながらどさりと仰向けにたおれた。
土手の上にひしめいて息を凝らして見つめていた群衆は、返り血をあびた平四郎の形相に、慄然として息をのんだ。一瞬にして三人の浪人を斬ったのである。
「皆の衆、得物を捨ててくれ」
平四郎は群衆と対峙した。
「一揆を企てた浪人者を切り捨てたのは、わしじゃ。百姓衆にお咎めはない。得物を手放して御沙汰を待ってくれ」
百姓衆は、戸惑いをみせながらも、平四郎の気迫に恐れをなしたか、土手の下に竹槍を捨て、鎌を捨て、猟銃を手放した。
一揆のようすをじっと見ていた家老丹羽忠亮は、勘定奉行を呼びよせた。
「勘定奉行、よく見たか。平四郎は百姓を斬り捨てたぞ、血迷ったのではなかろうか」
「そうだとすれば、やはり平四郎を信じたのは間違いでした」
そういい、勘定奉行は岩井田昨非に振り向いた。責任は昨非にありとでも言いたいようすだ。
昨非は、厳しい表情で遠く土手を指さした。
「わしも百姓三人が倒れるのをこの目で確かめました。されど、土手の下に捨てたもの、あれは何でしょう。百姓衆の竹槍や鎌ではないかと思われます」
忠亮が鉄砲足軽を呼び寄せた。
「もし、百姓が得物を捨てたとすれば、何事かが起こったにそういない。鉄砲足軽を走らせて、ようすを確かめよ」
昨非が立ちふさがった。
「御家老、鉄砲はなりません。百姓衆に一発の鉄砲玉を撃ちこめば、幕府は決して許しません。改易か、お取り潰しは免れないでしょう。これまでに二本松藩は、改易の苦汁を十分味わって来たはずです。わしがひとりで参ります。行かねばならない訳があるのでございます」
「昨非さま一人では危険だ。こうなっては構うものか、鉄砲足軽どもをみんな連れてゆけ」
勘定奉行は鉄砲にこだわった。
「いいえ、従者はいりません、鉄砲も、刀も必要ありません。もし、わしが手を挙げて合図をしたなら、そのときは……、やむを得ません」
忠亮がかすかにうなずくのを見届けた昨非は、心をせかせて、群衆に向かって小走った。土手の下から見上げると、平四郎を取り巻いて百姓衆が声高にやりあっている。
「平四郎」
昨非が声を絞って叫んだ。
驚いたようすで平四郎が振り向いた。返り血で衣服が染められ、血の臭いがただよっている。
昨非は、ずらりと並んだ百姓衆を見渡した。老いもいれば若者もいる。鋭い視線で威嚇する。目がくらみそうであった。
「皆の衆、わしが岩井田昨非だ。あの戒石銘の張本人だ」
百姓衆がざわめいた。捨てたはずの竹槍や鎌を拾う者もいる。
「城下の大石に刻んだ戒石銘は、百姓衆に誤解を与えてしまった。許してくだされ。戒石銘は、このように解釈をするのです」
岩井田昨非は大きな声で語った。
「お前がお上からいただく俸給は、民の汗と脂の結晶である。下々の民はしいたげやすいけれども、神をあざむくことはできない、という戒めの言葉であって、決して百姓衆をあなどったのではございません」
昨非は百姓衆の前に土下座した。
「もしも疑いが晴れぬなら、そこの百姓、その竹槍でわしを突きなさい」
昨非は必死にうったえた。
「お上からいただく俸給は、百姓たちの汗と脂の結晶だというのか。これは真の言葉であろう」
百姓衆は顔を見合わせた。棒給は百姓たちの汗と脂。棒給は百姓たちの汗と脂。百姓衆は復唱した。感極まって涙を流す者もいる。
「先生、百姓衆は、修験者となのる浪人に騙されたのです。騙した浪人者は、この平四郎が斬り捨てました。百姓衆はみな無事でございます」
「なに、斬り捨てたのは、百姓でなく浪人者であったか。そうであったか、それは安堵したぞ」
昨非は百姓衆にむかって必死に説得した。
「百姓衆にお咎めはない。代表者の幾人か、わしに付いてきてくだされ。お上に、百姓衆の要求を申し述べるのです。そのほかの百姓衆は村に戻るのがよかろう」
首謀者を失った百姓衆は、うろたえながらも逃げ去るように姿を消した。
九
それから一週間後、家老忠亮に連れられて昨非は隠居高寛に謁見した。いつになく厳しい顔をしているのに気づいた。
「一揆を鎮めたのはよいことだが、三人も斬り捨てたと聴いた。ほんとうのことか」
「はっ、三人を斬り捨てました」
「百姓を斬ってはならぬと、あれほど申したではないか。平四郎ごときにすべてを擦りつけて、忠亮、お主ら何をしておったのじゃ」
「はぁ、申しますに……。平四郎は百姓の子で、あれは百姓同士の争いでございました。我が藩には関わりのないことでございました」
忠亮がしどろもどろに弁明した。
「百姓を斬って、言い訳をするつもりか」
憤慨して座を立とうとする高寛を、
「お座りください」
昨非がいつにもなく強い口調でいった。
「平四郎が斬ったのは、百姓ではなく、食い詰め浪人です」
高寛が目を見張って座り直した。
「一揆のなかになぜ浪人がおるのじゃ」
「浪人者は飢えに耐えかねて、百姓一揆をくわだてたのでしょう。戒石銘に文句をつけて、百姓の汗と脂を絞るだけしぼれ、と刻まれていると言いふらして、我が藩の転覆をたくらんだのでございます」
「なに、藩の転覆と申すのか」
「さようでございます」
昨非は鋭い目つきでにらみあげた。
「藩内の揉めごとは、巷では敏感に感じ取るものなのです。浪人者は、我が藩は政まで困窮していると見くびったのでしょう」
高寛は、頭を殴られたようなめまいがして、脇息にもたれかかった。
江戸藩士と国許藩士の争いの結末が、領民たちを動揺させていたのだ。
「一揆は、わしの力量不足がもたらした禍か、昨非。平四郎の言い分をよく聞いてやるべきだった。褒めてやりたい、早々にここに連れてまいれ」
「いまさら何を申されます。あの日、お上は厳しい顔をなされて、平四郎は所払い、と申されたではありませんか。もう、城下にはおりません」
昨非は溢れんばかりに涙をためて、高寛を見上げた。
十
家老忠亮と岩井田昨非は馬で城下を離れた。日差しは少々暑いぐらいだが、山から吹いてくる風は心地よかった。二本松領の塩沢村と幕領の境まで来たあたりで、忠亮は馬の手綱を引いた。
「猪と出くわしたのは、この辺りだったな」
「はい、この曲がり道の近くでございました」
昨非も馬を止めた。
「あの時にあの若者と出会わなかったなら、今ごろ我が藩はどうなっていただろう」
「たしか、一揆の人数は、百姓が百五六十人と、あぶれ者たち五六十人ほどと告げられました」
「命を懸けた百姓衆が一斉に暴れ出したら、わが藩士だけでは手に負えなかった。やはり、鉄砲に頼るきりなかったか」
忠亮は深いため息をついた。
「あの時の平四郎は、返り血をあびた姿で、悲壮な面構えでした。猪を助けた者が、思い切って三人を斬ったのですから、断腸の思いだったでしょう」
「早く安心させてやりたい。そしたら早々に棒級を与えてやろうではないか」
「平四郎は、必ず、頼れる藩士になるでしょう」
二頭の馬が歩き出した。
山を越えると上水原村が一望できた。
幕府からの締め付けは年々厳しく、藩財はやはり、頼るところ、百姓衆の力に依存する。その百姓衆に一揆をさせるほどの苦しみをもたらした。秋の凶作には、他藩から蔵物を借り受けて、飢えを凌げばよいではないか。
やがては雨が降り、陽の光が射せば、作物は息を吹き返す。来年こそは豊作であろう。天の恵みはまことにありがたい。昨非は天を仰いだ。
馬から下りて加藤屋敷の門前にたった。作男があわてて奥へ姿をけした。平四郎を城奉公に招いた二本松藩家老と平四郎の恩師が現れたのだから、加藤家の者がおどろくのも無理はなかった。
「これは、これは、御家老さまに舎人さま。噂はよくぞんじあげております」
源右衛門が出て手を差し伸べた。どことなく顔色もさえず、気難しそうな面構えの老人であった。
あの騒動からまだ日が浅いというのにこうして村の百姓衆が受け入れてくれる。信頼おける間柄になればこそ藩も栄えるのだ。政とは、民の気持ちによりそうことであろう。
二人は客間に招かれて、膳がそろうまでの間、しばし待たされた。
太い柱に磨き抜かれた漆塗り板戸、欅の木目が品格をあげ、領主屋敷には威厳が感じられた。まして、気難しそうに口をつぐんだ源右衛門が目の前で睨みを利かせているようで、落ち着かなかい気分であった。先ほど兄の正之助夫婦が挨拶にきたが、平四郎はまだ姿を見せていない。
「平四郎はどこにおるのか……」
忠亮が家の内をみまわした。
「平四郎に何か御用がおありですかな」
源右衛門がいった。
「うむ、大殿が、この度の働きで平四郎にお褒めの御言葉を授けたいと申しておる。二本松藩士として正式にとりたててやりたいのでござる」
一瞬、源右衛門の身体から近寄りがたい妖気がただよった。
「平四郎に、そのようなことは御無用にございます」
「いま何と申された」
「御無用にございます」
腹立たしいほど、源右衛門にはつかみどころがなかった。
源右衛門は、なんとも言い難い表情で目を伏せた。
正之助が座敷のすみに正座した。
「わしが申し上げます。あの騒動ののち、平四郎は我が家にもどりません」
「姿をくらましているのか」
忠亮は、扇子で己が膝をぴしゃりとたたいた。意気地なしとでも思ったのであろう。
正之助は昨非に訴えた。
「先生。平四郎は……。もう、この世にはいないのです。自害して果てました」
「何と……」
一瞬、昨非は時が止まった錯覚に陥った。
思わず、忠亮は扇子を手放した。何かの間違いであろうと、家の内や外をみまわした。
「これは、真か」
「なんで偽り事など申しましょうか」
正之助の怒りが昨非に向けられた。
昼も夜も働き詰めで、日の目を見ない百姓衆を護ってやりたい。百姓衆が流した脂汗を己れも流して、知恵を絞って、肩を組んで、一緒に笑ってみたい、こんなことを平四郎は得意顔で言っていたことを、昨非は思い出していた。
「源右衛門さん……」
昨非は両手を畳について、ふかぶかと頭をさげた。
家老忠亮も声を詰まらせて頭をたれた。
「いいや、御家老さまが謝ることではございません。平四郎は、わしのために果てたのです。秘匿にしておくわけでもございませんが、わしらの祖先は奥州平泉藤原です。在地領主でその支族です。このたび、平四郎が斬り捨てた曲者は、わしを在地領主で、百姓一揆の首謀者とかたり、吹聴したのです。わしらはそのようなことは決してございません。根拠のないうわさを一掃するために、平四郎は思い切ったことを仕出かしたのです。舎人さま、平四郎を……。もう御放念くだい」
源右衛門がしずかに頭をたれた。
いたたまれなくなって、昨非は開け放された障子戸の庭先に目をやった。
軒先にかけた蜘蛛の巣に、蜘蛛がひそんで獲物を待っている。盆栽の木が陰って、長居したことにはじめて気がついた。
十一
馬は八丁目村を通って城下に向かった。夕陽が影を長くして、夕風が頬をかすめて通り過ぎてゆく。
「幕府の嫌疑もなく、我が藩の百姓衆も、幕領の百姓衆もおちついてくれた。これで二本松藩も安泰ということだな。それにしても、源右衛門一族が藤原の末裔とはおどろいた。鎌首をもたげて、後ろから襲われたら二本松藩は深傷を負っただろう。源右衛門は涙もこぼさず、愚痴もこぼさず、得体のしれないご老人だな」
道端そびえる柳の大木の枝がかすかにゆれている。
「得体の知れないとは、何ということを申されます。源右衛門は親子で二本松藩を守ったのでございますよ」
昨非が忠亮をいさめた。
「親子で、と申したか」
「お分かりになりませぬか。一揆騒動のとき、源右衛門が首謀者にされていたら、このときとばかりに、百姓一揆は二本松藩領の村々まで連鎖して、大事に発展したでしょう。そうしたらどうなります。国替えか、お取り潰しか、幕府の格好の餌食になったでしょう。源右衛門が黙秘をつらぬいて、平四郎は、百姓衆の怨念を一身に背負って、果てたのです」
二人は黙って馬に揺られた。
しばらくして、忠亮がぽつりとつぶやいた。
「それに間違いなかろう」
糸を張った蜘蛛の巣で、獲物を狙った蜘蛛は岩井田昨非、わしであった。
柳町をすぎると城下になる。戒石銘が刻まれた大石の前で、忠亮と昨非は馬からおりた。
大石が誇らしげに鎮座している。
爾 棒 爾 禄
民 膏 民 脂……
昨非は、背伸びをして腕を伸ばして大石に刻まれた戒石銘を、爾、棒、爾、禄……、掌でなぞってみた。
平四郎の領民を思う慈悲の心は、この戒石銘、そのものであったろう。はじめて平四郎と心が通じ合った気がした。心のなかで、平四郎……。大石に向かって叫んだ。足の力が抜けるのを感じながら、掌が石肌を滑り落ちた。これまでこらえていた涙が堰を切ってあふれだし、昨非は声を出して泣いた。かたわらの忠亮もすすり泣いている。
上弦の月が南の空に浮かんでいる。いつのまにか、二本松城には秋の夜風がさわさわと吹きわたっていた。
(二本松城『戒石銘』了)
二本松城『戒石銘』
主な登場人物
岩井田昨非(いわいださくひ) 二本松藩儒学者
丹羽忠亮(にわただすけ) 二本松藩家老
丹羽高寛(にわたかひろ) 二本松藩五代藩主(隠居)
加藤平四郎(かとうへいしろう) 加藤家四男
加藤源右衛門(かとうげんうえいもん) 加藤家当主
加藤正之助(かとうまさのすけ) 加藤家嫡男
丹羽蔵之進(にわくらのしん) 勘定奉行嫡男
お 信 (正之助妻)
お登世 (重太郎妹)
重太郎 (平四郎友人)
勘定奉行 (国許藩士)
郡奉行 (国許藩士)
祈祷師
参考資料 二本松市