短編時代小説「風の坂道」
松川町水原の小説家 丹野 彬(たんの あきら)様の作品「風の坂道」をご紹介いたします。
丹野 彬 様の作品は、膨大な資料に基づいた時代考証と登場人物の巧みな心理描写をもとに壮大な世界観を紡ぎだします。ぜひご覧ください。
県文学集 第61集 -第66回福島県文学賞作品集- 編集者:福島県文化スポーツ局文化振興課 発行者:県文学集発行委員会 印刷所:㈱民報印刷(平成26年3月7日発行)掲載<小説部門 準賞 受賞作品>
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短編時代小説
風の坂道
丹野 彬
一
涼風が立ちはじめると、残暑の厳しさもいつとはなく薄れて、すっかり秋らしくなった。
岩松は軒先でわらじを編んだ。女房のお民が夕餉の支度をし
ている。包丁の音は心地よく、あとは倅の太兵衛が宿場の問屋から塩を背負って戻り、家族で温かい鍋でもいただければ、こんな幸せはない。
かます買いの塩は小分けにして、岩松が担い商いで売りさばく。そのもうけのわずかが太兵衛の小遣銭になるのだから、太兵衛とて張り合いがあるはずだ。
それにしても、いつもより太兵衛の戻りが遅いのは、宿場の駕籠舁きや馬方たちと賭け事をして刻を費やしたか、茶屋に上がったか。そんな年頃だ。
本家の犬が吠えている。太兵衛が戻ってくる知らせだ。太兵衛の力強い足音はいつもながら心強く感じる。
太兵衛は、背負ってきた塩かますをぞんざいにおろして、
「おらぁ、江戸に出て侍になるんだ」
唐突に意外なことをいった。
岩松は聞こえぬ振りしてわらじを編んだ。
會津様は京都守護職を拝命なされて、たいそうな御出世をなされたそうだ。二本松様だって、兵隊を引率して上洛しているらしい。大砲や刀剣を積んだ荷車をひく農兵が重宝がられて、働きによっては家来分にとりたててくれる、という噂が立っている。
奥州街道は浪人やら無宿者たちが何らかの被け物をもとめて江戸に向かうらしい。太兵衛は宿場で何かの刺激をうけてきたのだろう。
「侍になるんだ」
いろり端に胡坐をかいて声高にいった。
岩松はちらりと太兵衛を見た。
なにが侍だ。そんなことは、次男坊、三男坊が口減らしのために考えることだ。太兵衛はおのれが田畑を耕せばいいんだ。
「なあ、お父ぁん、おっ母さん。一生塩担ぎなんて、惨めすぎやしねえか」
月に一、二回の塩運びがそんなに辛いことはない。余計なことを考えると、苦労を背負うことになるんだ。
「儀平治だって、藤次郎だって農兵に志願するそうだぜ」
太兵衛がいつになく口答えをする。利かぬ気のところもあって不安がよぎった。
「百姓の倅は百姓でいいんだ」
岩松は、太兵衛に引導をわたすつもりでいった。
先代だって、おのれだって、田畑を耕しながら塩、米の担い商いをして暮らしてきた。これが天命と思えば不満もなかった。
四、五日が過ぎて、岩松が畑仕事にでようとするところに、ひとりの若者が訪ねてきた。太兵衛に用事があるらしい。
岩松は若者に一瞥を投げた。身体つきは中肉中背の百姓のようだが、険しい目つきをしている。どうしてこんな奴が来たのだ。どうせろくでもない話だろう。
太兵衛は、菅野村を上村、下村と二分する川に釣りに行っている。
「太兵衛はおらんぞ」
岩松が高飛車に出ると、若者は礼を正して下村の儀平治と名乗った。下村は川の向こうにあり、大水が出ると水田が流される。
「なに、てめえが儀平治というのか。何の用だ」
こいつが太兵衛をたぶらかしている儀平治か。
「農兵になると、今年の年貢は許してくれるそうだ。岩松さん」
岩松さんだと、いつのまに太兵衛とそんな親しい仲になったのだ。
「てめえは跡取りか。跡取りかと、訊いておるんだ」
岩松の剣幕に、儀平治は怪訝な顔色をした。
「三男坊だ」
三男坊なら農兵でも入り婿でもかまわないが、太兵衛はそうはいかない。かけがえのない跡取りだ。
「そこの切り株にでも腰をおろして休んでおれ。まもなく戻ってくる」
どうしょうもない奴と付き合うと、どうしょうもない奴になってしまう。岩松は鍬を担いでみたが、気がかりで二の足を踏んだ。
一刻ほどして、釣竿を担ぎ、魚籠を下げて太兵衛が戻ってきた。ふたりの顔がほころぶのを見逃さなかった。どこで知り合ったのだ。
儀平治が目配せをするが、
「ここでよい」
太兵衛ぞんざいにいった。
岩松はどきりとした。太兵衛はすでに農兵になることを決めているのではないか。
「兵になれば食扶持も減るし、戦で手柄をたてれば侍も夢ではないぞ。番所から仲間を誘って来いといわれて、太兵衛を思い出したんだ」
儀平治の目が輝いている。
儀平治、太兵衛をたぶらかすのはやめにしろ。岩松は堪らなくなった。
不作がつづくと餓死するのは年寄りからだ。お救い米も高が知れて、飢えを凌ぐだけの暮らしから抜け出せないでいる。江戸に出て一旗あげたいと、若者ならそう思わないのがおかしいくらいのご時世だ。水呑百姓の飢えは、儀平治一家も相ならぶものであろう。
農兵の志願者は若者ばかりではなかった。大黒柱の壮年まで波及した。村人たちが村社に勢揃いして安全祈願をし、農兵を送り出す。お国の御奉公は村の誇りでもあった。
近ごろの太兵衛は仕事が身につかなかった。土手に腰を下ろして、南の空にうつろな眼を向ける。心はすでに江戸に向っているようだ。
太兵衛が、
「いちどだけ江戸にやってくれ」
と、いいだした。
他人の飯を食えば心身の糧にはなるだろう。しかし、当今の世の中、尊王攘夷を旗印とする藩と幕府の睨み合いがつづいているらしく、巻き添いを食らっては元も子もないであろう。
「百姓が侍になれるはずがあるまい。百姓の子は百姓でいいんだ」
岩松は頑として許すことができなかった。
そうはいっても、太兵衛は城下の祭りに出かけると、いつも顔や足腰に傷をこさえる。やくざに喧嘩を売る、買う。日頃から百姓に不満があるから、その憂さ晴らしとしか思いない。
太兵衛の強い意志に、結局、岩松が折れて、太兵衛は江戸に往くことになった。
出立の日。岩松は先々の心配がつのり無口になっていた。これが太兵衛との最後の朝餉になろうとは思わなかった。
お民は、膳をかたづける間も惜しんで立ち上がり、準備しておいたのだろう、巾着を太兵衛にもたせて、太兵衛の顔を見た。「行くのかい」
「江戸の雲行きが変わればすぐに戻るから」
親の心配など知らぬげに、岩松の編んだわらじの束を腰に下げて、太兵衛の眼が生き生きとしている。
先刻から、切り株に腰を下ろして待ち入る儀平治が、
「なあに、江戸見物だと思えば気楽なもんだ」
と、白々しくいった。
なに、江戸見物だと、そんないい加減な気持ちで、侍になれると思うのか。儀平治の一言が岩松をますます不安にさせた。
鼠色の着物の尻を端折って、太兵衛は儀平治と連れ立った。
朝露のように、いまにも零れ落ちそうな夢を抱いて太兵衛が去った。岩松の心の灯りが揺らいて消えた。
二
激しく戸をたたく音で、岩松は飛び起きた。雨戸の隙間はまだ闇である。
寺の境内に太兵衛の屍が捨てられていると、成仏寺の寺男が知らせにきた。
岩松は、信じられぬまま、気持ちを急かせて、身支度をして外にでた。寺男の姿はすでになく、東の空が白んでいた。夢ではないかと思うほど鎮まっていた。とにかく急がねば。
道の途中で振り向くと、風呂敷包みを抱えて、お民が遅れがちに従った。
「こんなときに、何を抱えているんだ」
おそらく太兵衛に着せる着物であろう。太兵衛が死んだなんて、信じられんのは、お民、おまえと一緒だ。
「ほら、あの森のあたりが成仏寺だ」
岩松は行く手を指し、お民の手をぐいと引いて、歩度を速めた。
百姓の朝は早い、点在する屋根には白い煙がたちのぼっている。
成仏寺の参道の周辺は、すでに朝の光に包まれて、豪農の蔵が威厳をあらわしている。
寺の境内には、いちょうの大木がそびえて、その根元には、たしかに屍がこもをかぶっていた。こもからはみでた着物の袖は、鼠色のひとえ物、太兵衛が家をでたときの姿のままだ。勇んで江戸に往ったはずなのに、何でこんなところでぐずぐずしていたのだ。
「太兵衛」
お民は腰がぬけたようにへたりこんだ。
岩松がこもをめくった。
歪んだ顔はいかにも無念の形相をしているが、これは太兵衛ではない。儀平治ではないのか。
「儀平治、何があった」
岩松は、儀平治の半身を抱くと、血糊がぬらりとした。それにこの掌はどうしたのだ。五指が無残に打ちくだかれている。
何ということだ。頬被りの手拭をはずして、頭髪を整え、口元を拭いて、指のない掌を包んだ。
「萱野村の岩松かな」
いつのまに現れたのか、住職が儀平治に手をあわせた。
「近隣の百姓たちが、この仏さんは萱野村の岩松の倅ではないかというのでな。おまえさんのところに、使いを走らせました」
「こいつは倅ではねえんです。萱野村下村の儀平治ではないかと思うんだが」
住職は、周囲に油断なく目を配ると、声を落して、
「仏さんは儀平治に間違いございませんか」
念を押した。
「おらの倅と江戸に往ったはずが、どうしてこんな酷いことになったのか」
「疑わしいのは儀平治の指です。これは牢屋の拷問の痕です。叩かれて、なおかつ指攻めに遭ったのでしょう」
住職は一呼吸おいた。
「代官所に不満を抱く百姓たちに、不穏な動きがあるとの噂が流れています。見せしめのために、儀平治を捕まえたのではないかと、百姓たちが怯えていました」
住職のいう不穏な動きとは、もしや百姓一揆のことか。
「罪のない者を拷問にかけて、晒し者にするつもりかい」
「それは、わかりません。百姓の寄り合いに、この者が出入りしているところを、目撃されておるのです」
えっ、儀平治が百姓一揆の一味、太兵衛はその仲間なのか。
この不景気な世の中で、悪徳米問屋から賄賂をうけとり、百
姓の保有米まで取り締まる悪代官の横暴に百姓は泣かされている。ふたりは、農兵などと偽っていたが、真実は、一揆首謀者の密命があったのではないか。
「岩松さんは儀平治とかかわりを持ってはいけません」
かかわりを持つなとはどういうことなのか。住職の無表情は岩松の心を怯えさせた。
「太兵衛の消息は」
「うかつにも番所で聞くことはできません。即に縄を打たれます。役人はそれを狙っているのですぞ。儀平治をここに捨てて、拾いにきた奴を捕まえる。これはおとりかもしれませんので、百姓たちを早々に帰しました。あなたもすぐにお帰りなさい。あとの供養は寺でおこないます」
住職は寺から儀平治を運び出すのを心配している。萱野村に禍を持ち込むなということなのだろう。
「いいや」
岩松は頭を振った。
太兵衛をたぶらかした憎い儀平治だが、死んだものに罪はない。
太兵衛は世直しのために危ない橋を渡っている。そう思い知ると、同じ志の儀平治を無縁仏にしてはならない。着物の取替えだって、身元を知られぬためのふたりの策であったろう。それに、儀平治の身内だって、儀平治を見れば、涙を流すに違いないのだ。
「南無阿弥陀仏」
お民は儀平治を着物で包み込んだ。
「和尚さん、勘弁してくだされ」
岩松は住職がとめるのを振り切って、寺男が持ち出した荷車に儀平治を乗せた。
「お民、しっかり押せや」
荷車をひいた。
「あいよ」
車輪がわだちにはまると、荷台の儀平治が大きく揺れた。
三
萱野村は、奥山の鉄山、鬼面山が連なるふもとになり、奥州街道八丁目宿から一里あまり西に向かう。なだらかな上り道の途中は、地蔵塚、萱原、そして稲田の盆地となり、稲田を二分するかのように川が横たわる。稲田が色づきはじめると、肝煎りと役人が、稔り具合を検め、これが年貢の石高になるのであった。
岩松の本家清蔵の家は、いぐねが母屋と蔵を囲んで名の知れた家柄だ。分家岩松は、道を下った川添いに、杉皮屋根の母屋に下屋をおろして、川音の賑やかなところだ。祖父の代に水車小屋を建て、穀物を挽いたのだが、すっかり朽ちている。
岩松は、竹籠を背負い、村々をまわって百姓の余剰穀物を買い、城下の町人地で売りさばく。城下町からは乾物、酒などを仕入れて百姓にとどける。太兵衛が去ってからは、商売に身が入らず、太兵衛の消息を確かめるのに日々を費やした。
秋風が塵や屑を拭き散らす。下駄屋、提灯屋、箪笥屋の軒先にはぶらり提灯が灯り、城下の町人地の賑わいはこれからだ。
人の出入りの多いのは旅籠屋だ。宿帳のなかに太兵衛らしきはいないか。誰かの記憶に残っていないか。岩松は、おそるおそる旅籠屋の暖簾を割った。
「そういえば、祭りの三日目だったかしら、香具師連中の諍いがあったらしいけど」
気怠そうに出てきた女が他人事のようにいった。
城下の提灯祭りは、毎年稔りの秋に催される。町内の提灯屋台が練り歩いて、豪華さを競うのだ。もちろん出店もあれば振る舞え酒もある。祭りに喧嘩、博徒はつきものだ。喧嘩する勢いなら太兵衛兵も大丈夫なんだが。
香具師は人混みに陣取って、客人相手に威勢のいい言葉をぼんぼん投げて、安物を売りつける。その連中がどうした。
「香具師の裏は博徒さ。素人を誘い込んで、いかさま賽子で有り金ぜんぶ巻き上げるんだよ」
太兵衛が博徒と一緒に放浪して、他国をさまよっているというのか。
「茶屋にきて、息子を探すなんて親ばかだよ」
付き合いきれないといったふうに女が顔をしかめた。
村の連中さえも仕舞いにはこんなことをいった。
「とんだことだな、岩松。山の神の仕業じゃねえか。太兵衛ときたらあの男振りだもの、さらわれてしまったのさ。山の神は嫉妬ぶけえ婦女だそうじゃから、魔が差すてぇこともあるもんだ」
何が可笑しい、隠し男になったというのか。
岩松にとって、連中の悪態は許せなかった。本家の清蔵までが坂道に待ちかまえて口幅ったことをいう。
「我が子は可愛いもんだ。どこの親もそういうわな。だがな、考えてみろ。こんな山里を耕し続けて一生を終えるなんてみじめな話さ」
親を捨てたというのか。口にするな。肝煎りに聞こえたらどうする。たちまちお縄だぞ。百姓の子は百姓でいいんだ。野草でも口にすれば、かろうじて生きてゆける。村を逃げてもろくなことありゃしない。
考えてみりゃ、それぞれに言い分があるものなんだ。
岩松は幼い太兵衛を懐に入れて育てた。駄々をこねてもそれもまた可愛い。年頃になると宿場通いをはじめた。宿場には茶屋,商屋、駕籠屋、鍛冶屋などが軒を並べて、百姓の次男、三男が口減らしの年季奉公にでる。
太兵衛は世間の理不尽に憤りをおぼえたのだろう。しかし、よく考えろ。悪は善の上にのさばる。一筋縄では行かないのだ。岩松は心の太兵衛に語りかけてみる。
太兵衛を知るものは誰もいなかった。
小鳥の囀りが喧しい。岩松は頬被りを締めなおした。
岩松が上がり框に空籠をおろして、この日も憤懣を持ち帰った。
「だまって聞いていると、どいつもこいつも減らず口を叩きやがる。お民、気にすることはねえ。太兵衛は世直しをしているんだ。そっち、こっちの木偶坊とは違うんだ」
「親を捨てて、世直しかい。おらは納得いかねえよ」
お民が面を伏せる。慰めの言葉もない。
薪の火も弱く鉄瓶の湯もぬるんでいる。
お民が面をあげた。
「なんといわれようと仕方がねえ。世間の口に戸は立てられねえ。善人だからって長生きできるわけでもなし、悪人だからって短命なこともねえ」
艶の失せた顔に髪がこぼれた。
「お民、気をしっかりもてや」
「おめえさんこそ、商いが辛くねえか」
「辛いと思えば辛い。人さまに喜んでもらえりゃ、嬉しいもんだ。上を見て暮らしても限りがねえぞ。それより外は寒い。火も焚かねばいろりも寒い。冷え込んだらどうする」
岩松は薪をつぎたした。
「寒いのは、おめえさんとておんなじだ」
「何いうか。おらは歩いて身体の芯から火照っているわい」
「歩き通しも辛いことだ。死ぬまで籠を背負わせて不憫だ。おらばかりが温々としていては罰があたる」
「心配すんなって、まだまだ働けるぜ。城下は正月の準備がはじまった。豆も小豆もどんどん選り分けてくれ、景気のいいことばかりだぞ」
「そういっても歳はごまかせねえ」
お民が充血した眼を手の甲で拭いた。
「おめえだって、一服もしねで豆とにらめっこじゃ眼がもつめえ、心配だぞ」
やがて、火が燃え盛る。
岩松は、城下町で買ったお民の好物の饅頭をとりだした。機嫌はすっかり取り戻していた。
「だけど、心配があるのはおらだけじゃねえぞ。本家の清蔵にも悩みはあるもんだ」
「本家がどうした」
「きょう清蔵がお茶飲みにきて、こんなこといったぞ。分家は跡取りがおらんので、岩松が死んだら水車をおらの息子に譲ってくれろといいおった」
岩松は驚いた。
「相変わらず口の減らねえ野郎だ。とうとうおらが財まで目をつけたか」
「清蔵は、土地欲し、銭欲し、寝ても起きても、欲し、欲し、欲にうぬが首を絞められて、苦しんでいるんだわい」
「かわいそうな奴なんだ」
二人は笑った。
「だけんど、おらたちが死んで家が死に潰れになるなら、土地は本家に譲ろう。そしたら安心して死ねるわな。おめえさん、清蔵より早く死ぬなよ」
「ああ、死にやしないさ」
旨そうに饅頭を頬張るお民をみていると、岩松も幸せな気分になった。
四
岩松は、二本松城下を離れたあたりからならず者に追われた。人目のつかないところまで追い詰めて、懐の巾着や背負いの穀物を奪いとる、いつもの遣り口だ。
ならず者を雇っているのは城下町の米問屋に違いないのが、お上に訴えるわけにはいかない。お上の鑑札を持たずに米問屋の目こぼしに与っている、いわばもぐりの担い商いだからである。
岩松は脇道にそれて古道に逃げた。木陰に隠れてならず者をやりすごすつもりだ。木の根を踏んで進むと、朽ちかけたお堂が林の中に鎮まっている。背筋がぞくっとするほどうすら寒い。お堂の背後にまわって、板壁に身をよせて耳をすます。
道は二本松から福島、米澤とつづく奥州街道の裏道だ。
気がつくと、ここは人気のないどん詰り。見つかれば奴らの思う壺だ。ぐずぐずせずお堂を離れるんだ。荷籠を背負いなおすと、驚いたことに、ならず者三人がぶつぶつ吐きながら近づいてくるではないか。見つかればいつもの如く袋叩きだ。岩松は慌てて、板壁の隙間からようすをさぐった。逃げ足には自信がある。
奴らは目を光らせてお堂の入り口を取り囲んだ。浅黒い髭面が親玉らしい。色白の細面に顎をしゃくると、細面がうなずいて、お堂の戸をぎしぎしと開いた。
「おった、おったぞ」
「ずいぶん捜し廻ったが、もう、逃がさんぞ」
奴らは気勢をあげた。
おのれを狙ったのかと思ったが、そうではなさそうだ。
「おい、おとなしく出てきな。村抜けしようとの魂胆だろうが、それは許さねえ」
村抜け、と聞いて、岩松は身の毛を詰めた。ここにもまた村を抜け出さなければならないほど、貧困にあえぐ奴がいる。村抜けが事実ならば打ち首に値する大罪だ。
男がお堂から出て地面に降り立った。三十を越えたか、がっしりとした体つきが、垢じみた着物の上から見てとれる。いずれはいっぱしの百姓だったに違いないのだが、村抜けとは大胆なことをするものだ。そのあとから、あどけない顔立ちの姉弟と母親らしきがもつれあうように出てきた。着のみ着のままの姿は切迫した事情を物語っている。
百姓親子はお堂に身をひそめて、今夜にでも村を抜け出すつもりだったのか、どんな事情か知る由もないが、百姓が耕作を放棄するとは只事ではない。まず、肝煎りが許さないであろう。
肝煎りは、農地を統制して年貢を納める。不作の年には肝煎りの保有米で年貢を補填することになる。村抜けされて働き手を失うことは、年貢が減少することに等しく、肝煎りとて死活にかかわることだ。村抜けの見せしめにと、晒し首になった例もある。
「百姓に村抜けされちゃ、肝煎りも、米問屋も泣き寝入りだぜ」
ならず者は懐の匕首をちらつかせた。
「おらは裸一貫。邪魔はさせねえぜ」
百姓は鎌を立ててならず者を威嚇した。
「百姓に言い訳など何もねえのだ。おとなしくついて来い。さもねえと、てめえの女房もわっぱも痛い目にあうことになるんだぜ」
怯える子らの手を取り母親が逃げようとすると、ならず者が回り込んで母親の肩に手を触れた。
一瞬、百姓が身をひるがえしてならず者を蹴飛ばした。転倒したならず者が、怪我も恐れぬ相貌で立ち上がった。
岩松は固唾を呑んだ。
ならず者三人が、獲物を狙う獣のように三方から取り囲む。正面の髭面が匕首を抜いた。鎌に匕首、他に悪がふたりいる。とても鎌に勝ち目はない。
岩松は、お堂を支えた突っかい棒をむんずと掴んだ。武術の心得はないが、突きぐらいは何とかなる。髭面をめがけて躍り出た。
「やいやい、貴様ら、弱い者いじめは許さんぞ」
ならず者たちは一瞬、驚いたようすだったが、にたりとした。獲物がもう一匹、網に掛かったようなものだ。
「やや、てめえは岩松。舐めたことをしやがる」
岩松は声も足も振えた。侠気にかられてやったが、こんな大げさな喧嘩は初めてだ。
髭面が匕首を向ける。
岩松は、あまりの恐ろしさに、髭面の喉首あたりに棒先を突き出した。匕首よりも棒のほうが長い、的さえ外さねば何とかなる。髭面が歩みよと、岩松は喉首をめがけて突進した。手応えがあった。髭面が悲鳴をあげてもんどりを打ち、正気なく横たわった。勢い余った岩松はつんのめって気ばかり焦った。
一方は百姓が鎌で追い払った。
ならず者ふたりは髭面を両脇から肩掛けにして、
「岩松。覚えてやがれ」
捨て台詞を吐いた。
悪は蛇のような執念をもっている。このまま引きさがりはしないだろう。後の仕返しも、どんな手でくるか、岩松は恐ろしい荷をまたひとつ背負った気がした。
「百姓の源佐といいやす」
源佐は意外にも落ち着き払って、こもで鎌を丸めこんだ。
「それより、村抜けと聞いたが」
「宿場で荷担ぎして薬料を稼いでいたときのことだ。たまたま拾った印籠を、落とし主のお武家様にとどけたら、正直な奴だとほめられた。蕎麦をごちそうになりながら、心情を語れば、仙台領の肝煎りの居所を書いた半紙をいただいた。ひとのよさそうなお武家様で、藁にも縋る思いだった」
「それだけのことか」
「わけはまだあるんだ。米問屋からの借金が、利子がかさんで額がしれねえ、親を葬り四十九日を済ませて決心した」
どうしょうもない世の中だ。岩松はため息をついた。
「死んだつもりの覚悟でまえりやす」
「死んだつもりといったか」
「へっ」
「よおく考えてみな。死んだつもりなら、なにも村抜けすることはあるめえ。住みなれた村で死んだ積もりで働いてみたらどうだ。この不景気だもの、苦しいのはおめえさんだけじゃねえんだ。じっと歯を食いしばって、皆んな働いているんじゃねえか。屁理屈ならべたってそれまでのことだ。甘ったれるんじゃねえぞ」
岩松は、この親子に村抜けさせてはならないと思った。他国に逃げても事情は同じこと。仙台領の百姓とて暮らしは厳しいものであろう。それを思うと、文無しの村抜けなんてそんなに甘いものではない。
「やつらの狙いはこの娘だ。この娘に借金を負わせるわけにはいかねえんだ」
娘はあどけない顔つきをしている。この歳で身売りとは、やはり酷すぎる。
「年を越せばまた栗や稗が芽をだす。米問屋はそれまで、待ってくれやしねえのか」
「やつらの嫌がらせは、この娘に一生つきまとう。そんなこと、させるもんか。旦那、見逃してくだせえ。ご恩は決して忘れやしません」
師走、正月と食糧を喰いつぶして、ほんとうに飢えに苦しむのは雪降りが盛んな節分のころだ。いくらか蓄えのあるうちということか。
「そうかい、そこまで覚悟したとなりゃ、一刻の猶予もならねえ。早く行きな。国境えを越えたら、信夫の百姓と名乗りなよ」
信夫郡、伊達郡は、仙台領地であったこともある。信夫の百姓といえば無下に追い払いはしないであろう。
「おれは、ここで追ってを払うから、おめえさんたちは行き着くとこまで行きなよ。もし気が変わったらすぐに戻ってきなよ」
貧困に逃げ惑うこの親子連れ、誰の責任だ。代官も、肝煎りの家族も飢えの苦しみなど知らぬであろう。
岩松は、懐から散銭を取り出して源佐に握らせた。童の足ではどこまで逃げ果たせるか心配だ。遠のく親子を見送りながら、岩松はしばらく立ちすくんで太兵衛を思った。
五
空もようの悪い日は、家で小豆を選り分ける。あぐらの中にお盆を抱いて虫食いや、うらなりを摘み出す。太兵衛がごろ寝して目障りのときもあったが、今は虚しく隙間風が入り込んでくる。
裸木の梢に風がざわむき、清蔵の犬が誰かを威嚇している。清蔵が退屈しのぎに来ることがあっても、めったに客人はない。清蔵なら吠えやしないさ。何者かがくる知らせだ。
外に、濁声がして戸口に影のように男が立った。男は端折った裾をぽんと叩いて、
「担い商いの岩松は、こちらかな」
と、いった。
思わず手がすべって、ばらばらと豆が転げた。
担い商いなどと口にするのは、米問屋のならず者に違いない。米問屋にしてみれば、岩松は米を横取りする目障りな存在なのだ。追っても、追っても、籾を啄みにくる雀のようにあしらわれている。
男はじろりと内に探りをいれた。
「あっしは、目明し政五郎一家の身内のものだが、政五郎親分が訊きてえことがあるそうだ。ちょいと城下まで出て来てくんな」
男は虚勢を張った。
こいつは目明しの手先だ。ならず者と目明しと役者は違っても、おのれがもぐりの担い商いでは、まともに目を合わすことができない負い目がある。
「城下の政五郎親分さんなら存じておりやす」
政五郎は博徒の政と呼ばれ、もとは百姓の小倅であったらしい。些細なことで博徒仲間を傷つけて追われる身となり、街道筋を賽子家業で渡り歩いてきたとの噂である。いつしか二本松城下に姿を見せて、ならず者を束ねる力量を買われて、いまは二本松藩の目明しをしている。
その政五郎に担い商いの駕籠を検められたことがあった。
あのときは、城下の寺の境内で一服をつけていると、十手で肩を小突かれて、もぐりの商売を咎められた。穏便な『お叱り』で許されたが、そのあとは思い当たる節はない。それとも、村抜けの親子をかばったことが怒りに触れたか。
「何の御用かな」
「四の五のいってもしかたがねえ。とにかく詰め所まで来てくんな」
なんとも不愛想な。この呼び出しは、米問屋のならず者が村抜け親子のことをいいふらしたに相違ない。
寒い風が入り込んでくる。
男が立ち去るのを待って、お民は入り口の戸をたて、
「おめえさんが捕らわれたら、おらあ、どうすればいいんだい」
目明しの呼び出しをおそれた。
「心配すんなって、叱られても、牢までは……」
とはいうもの牢屋入りも有りうることだ。
「商いは、商人の仕事だ。百姓は種蒔き刈り取りが性に合ってんだ。どんどん水車を回して粉を挽けばいいんだ」
「ああ、そうするよ。担い商いなどきっぱりやめてやらあ。心配すんなって。だけどなあ、担い商いだって決して悪い商売じゃねえんだ」
岩松には未練があった。
担い商いをやめる決心がつきかねて、城下に出向くのが二日、三日とおくれた。
お民がわらじをそろえた。早く行けということか。
奥州街道は相変わらず人や駕籠、馬の往来が絶えなかった。目明し政五郎一家は、城下の町人地の一角を領有していた。障子に書かれた『政』の字がすぐ眼に入った。戸を開け放って岡火鉢を囲んだ手下どもが痴話に夢中だ。
岩松は腰を低くして、首に巻いた手拭いを懐に入れた。
「赤沢村の商い岩松でござえます」
手下どもがもぞもぞと口走りながら居場所を退けた。岩松は土下座したまま、しばらく待たされた。
政五郎は何を糺すつもりだ。これまでにうっかり仕出かした罪科を、三つ四つ調べ上げてあるのであろう。考えの途中に、政五郎があらわれた。相貌は阿吽の仁王像を連想させて底知れぬ恐ろしさがある、政五郎は大きい目を見開いて仁王立ちした。
「愚か者」
轟くばかりの大声で、岩松を一喝した。
「なぜ、さっさと出て来ない」
「へっ。申し訳ねえです。担い商いをやめようかと、二日、三日と考えあぐねておりましたら、女房が、やめろ、やめろと、うるさくいうもんで、ようやく決心がつきました」
「そうか廃業か。よかろう。年貢はお上が定めるものだ。掟にごまかしがあっちゃならねえ。てめえが銭をばら撒きゃ、百姓どもも年貢をくすねる下心をもつというものだ」
「親分さん。それどころじゃねえ。米問屋は、まだ米も稔らぬうちに銭を貸し付けて、百姓衆を縛り付けておるんです」
「何をいうのだ。うぬの業を米問屋になすりつける気か、小鼠であろうと大鼠であろうと掟を破るものは許せねえのだ」
旨いことをいいなさる。おのれが小鼠で米問屋が大鼠ということか。上目遣いに政五郎を見あげた。
「親分さん、聞いておくんなさい。おらは決して悪さをしたつもりはねえ。味噌とか塩とかが入用で、米一升二升と提げてくる百姓もおりますんで、水呑百姓の手助けと思っての稼業です」
「それなら、やめることもなかろう。なぜ、さっさと出てこぬ、愚か者」
岩松は頭が混乱した。担い商いのことではないとすると、村抜けした百姓のことではなかろうか。
「へっ、あの村抜けした百姓源佐のことでしたら、侠気心ってやつで、ついでしゃばってしまいやした」
「何をごたごた並べている。あの村抜け百姓は、身内の野郎どもが桑折宿に待ち伏せして連れもどし、とっくに肝煎りに差し出した」
「えっ」
岩松は思わず仰け反った。源佐は打ち首、獄門、見逃してくれと願ったあのときの源佐の悲壮な面が脳裏をよぎった。お裁きはどうなったのだ。
岩松はおそれかしこまって政五郎を見あげた。
政五郎が眉間に皺をたたている。
「若い百姓ふたりが、とんでもねえことを仕出かしたのだ」
若いふたりとは、太兵衛と儀平治のことではないか。
呼び出しは、担い商いでもなく、村抜け親子でもなく、太兵衛のことだ。早とちりにも程がある。親分が怒るのも当然だ。おのれほどの愚かものがこの世にあったものか。すでにこの世に儀平治はいない。不審な死にかたをした。太兵衛の消息不明も心配だ。もしや、牢のなかに生きておるのではないか。ここは真実を述べて御赦免を願おう。
「そいつは儀平治と太兵衛だ。ふたりは農兵にあこがれて、家を出たきり音沙汰がねえのです」
「垂れ込みががあったのだ」
「えっ」
「ふたりは直訴という大それたことを目論んだのだ。江戸にゆく途中の白河関で捕まえて、白状を迫ったが、その百姓は身元を明かさぬ強情者だ。そうなりゃ、わしの力など到底およばぬ。しばらく獄舎に留めて、牢役人がふたりを拷問したが、強かものよ。身元を明かさん。拷問に耐えかねて儀平治が舌を噛み切った。その屍を太兵衛に背負わせて、おとりに使ったのだが、太兵衛に逃げられて、網にかかったのが岩松、てめえだ」
太兵衛が身元を明かさんのは、首謀者を庇ってのことだ。百姓衆を護ったのだ。
「首謀者は誰だ、白状せい」
岩松は十手で肩を連打された。しかし、白状する罪科は何もなかった。
「白状せんか」
政五郎が叱咤する声は、岩松には聞こえなかった。
お尋ね者の烙印を押されて、太兵衛は土竜のように闇をさ迷っているのか。何でありようと、命あってのものだ。垂れ込みは誰の仕業だ。善人のような面をして酷いことをするものだ。善悪の報いは影の形に髄うが如し、岩松は意識が朦朧とした。
六
柿が色づくと稲穂が波打ち始める。しかし、今年の稲穂に色はなかった。真夏に寒い風が吹いて稲を病ませたからだ。鳥の囀りさえ力なく、家に太兵衛の姿がないのも寂しかった。不作を心配するのは米問屋とて同じことだ。すでに米問屋の主人が乗った駕籠が村々をまわって、百姓に前金を握らせている。駕籠は村に禍をもたらすのだ。
岩松は、あの村抜けの百姓を思い出した。連れ戻されたと聞いたが安否が気づかわれる。
たしか、信夫の里の源佐といった。足を延ばしてみようと思った。夏に穀物、冬に炭焼き。源佐はもう借金は相済みとなったか。あのときの童も働き手になっているだろう。なあに、そこそこ暮らして行ければ何もいうことはない。
雲が流れてしばらくぶりの晴れ間だ。道端の石仏が物言いたげだ。
太兵衛は、世直しなんて大それたことを考えて、御尋ね者になっている。未だに家に戻らないのは、野垂れ死ってことか。雨が降れば寒かろう、飢えも辛かろう。岩松は笠をはずして地蔵に被せ、賽銭を供えて手をあわせた。寂しさは隠しきれない。
柿の木に囲まれて、ここが源佐の家らしい。軒下には豆柄が立てかけてある。豆の収穫はこれからか。穀物を見るたびに金銭に換算するおのれの悪い癖だ。
岩松は何気なく戸口に立ち耳を傾けると、隙間から脅し声がする。穏やかでない雰囲気だ。
「この証文もちゃらだし、当分は家族揃って暮らしにゃ困らねえってことよ。どこだってそうだ。娘が親の面倒を見るのがあたりめえのことだぜ」
「無茶いうな。この畜生め」
主も負けていない。
「うぬは、おらを畜生といったな。許さねえ、許すもんか。去年も、おととしも、そういいくさった。借り得とはいわせねえぜ。今払わねば、まだまだ利子が増えるというもんだ。そうなりゃ、娘どころか家まで手放すことになるんだぜ」
この男、百姓の娘を餌に生きている女衒か。悪は闇から出てこんなところで蠢いている。岩松は息を殺した。
「女々しいぞ」
男が声を荒らげた。
こいつは悪徳米問屋の手先に相違ない。うわさは聞いていたが出会すのは初めてだ。これでは源佐の暮らしがよくなりはしない。
岩松は聞きかねて家のなかに入った。
源佐が横座に胡坐をかいて腕組みをしている。いくぶんやつれたようすだ。上がり框で男が噛みついている。女房がすこし離れて小さくなっていた。
岩松は素知らぬ振りをして背負い籠をおろした。
不意の侵入者に驚いたか、男が振り向いた。歳は太兵衛ぐらいであろうか。浅黒くきりりとひきしまった顔だちながら妙に暗い。
「やっ、おめえさんは……」
源佐が岩松と知って喜びの声をあげた。
「そうだ。いつぞや、お堂で出会った、岩松だ」
源佐が元気づいて、男を指した。
「こいつは米問屋の番頭で蛇のように執念深い。佐太郎という畜生だ」
岩松は、佐太郎をじろりと見た。ならず者は許さん。
佐太郎は懐から折りたたんだ和紙を取り出した。面倒なことになるまえに事を済ませようという魂胆なのだ。借用証書が板の間にぱさりと据えられた。法外な利子を書き込んで、源佐を泣かせているのはその紙切れだ。
「佐太郎とやら、ここに居合わせたのも何かの縁だな。穀物の代わりに、その証文証を買い戻そうと思うんだがどうだ」
佐太郎が目を剥いた。
「笑わせちゃいけねえぜ。そんな半端な文銭と証文証を一緒にされちゃ、おらが首を括ることになるんですぜ。銭が物いうご時世だ。きれいごとばかりじゃ生きてゆけねえ」
「銭で頬を叩いて、幾人の百姓を泣かせた。それでも善しとはいわせねえ。許される道理があるか」
「おめえさんには、かかわりのねえことですぜ。聞かねえことにしてくんな。痛い目にあうことになりやすぜ」
「よしや。売られた喧嘩は買わなきゃならねえ。年寄りと思って舐めるんじゃねえぞ」
外は乾いた風が吹いていた。
「岩松さんよ。おめえさんだって、米商いを商売にしているんだ。商い同士の争いは止めにしねえか」
「おい、おい、青二才が何をいうか。人の命を商売にしていいと思ったか。殴られたくらいで降参するか」
「人にはそれぞれ事情があるものなんだぜ」
こんな男に情けをかけるものか。岩松が睨め付ける。
「弱いものを泣かせると天罰が下るのだ。てめえが、改心するまで、おれは許さん。さあ、かかってくるんだ」
岩松は腰を低くして両腕をひろげた。
佐太郎がその気になって、二歩、三歩後ずさりして、岩松の胸に体当たりした。意外な強い力に岩松がよろけた途端、佐太郎は岩松の脛につまづき、勢いよくのめった。岩松は佐太郎に馬乗りになり、握り拳で佐太郎の頭を叩いた。佐太郎は岩松を跳ね除けると、起き上がりしなに、鋼のような拳の反撃が頬にきて、目がくらんだ。
気がつくと佐太郎がうずくまっている。源佐が背後から襲ったらしい。岩松はこのときばかりと、佐太郎の胸元にとりついて、横ざまに力を込めて殴りつづけ、はっと、上げた拳を宙で止めた。
「佐太」
岩松は思わず佐太郎から跳ねのいた。おのれはいま何をしているのだ。おのれを捨てた太兵衛に重ね合わせて、佐太郎を打ったのだ。悪心を改心させたい一心で、人さまの息子を打ってしまったのだ。
佐太郎は顔をゆがめたが何事もなかったように起き上がった。殴り殴られは日常茶番なのであろう。年寄りと見て力を抜いたか、逆らうそぶりはなかった。
「おれは悪いことはしておりませんぜ、悪徳米問屋といいなさったが、銭貸しですぜ。借りた銭を返さねえなんて、そんなつじつまの合わねえ話、あってもいいんですかえ」
「じゃがな、厄の年は穀物が稔らねえ、銭にならねえのだ。ほんとうに返す銭がねえのだ。待ってやるくれえの度量はもたねえのか。それに法外な利子はいかんぞ」
「何でありようが、腹は減るんだぜ。銭がとれねえとなりゃ、死人の衣でも剥ぎ取るしか食う道はねえや」
金貸しのくせに可笑しなことをいうやつだ。佐太郎、何がいいたい。岩松はまじまじと佐太郎を見た。こいつは物陰に生えた草のように恵まれん若者のような気がした。
「なあ、佐太。城下には、下駄屋、箪笥屋、饅頭屋が軒を連ねておるじゃねえか。奉公を頼んでみるから、もう手を汚すのはやめにしろ」
佐太郎は、怒りを収めるかのように、勢いよく裾の埃を払った。
「なんでえ、殴ったと思ったらこんどは説教か。こんどのことは手加減したが、次にはそうはいかねえぜ」
軒先に突っ立つ源佐夫婦をじろりと睨んで、佐太郎は振り向きもせずに消え去った。
ようやく源佐に笑顔がもどった。見たところ家族揃って元気なようすだ。
「なあ、源佐。おめえさんの無事な姿を見て安心した。ただそれだけで会いに来たんだ」
「あんときに、種を蒔けば芽が伸びる。住みなれた村で死んだつもりで働け、といわれたことばが身に染みて、そのつもりで働きました。そしたら集落の百姓衆が、畜生どもを追い払ってくれたりして、面倒みてくれるんで、なんとか暮らしています」
「一生懸命働く姿は、みんなの心を動かすものなんだ」
岩松は籠を背負った。
そういっても、作物などは、百粒蒔いてすべてが芽をだして稔るわけではない。旱に焙られ、雨に流され、ちょっと目を放しゃ、鳥や虫に喰われて皆無ってこともある。油断ができない。それでもまた種を蒔かねばならない。水呑百姓は一生辛抱だ。何とかならないものか。
岩松は、豪奢な商人屋敷を思い出した。あれらはみな水呑百姓の流した汗なのだ。
七
晩秋の風に邪魔をされて籠の穀物がさばけない。裏通りの町は戸を閉じて風が通り過ぎるのを待っているのか。それとも、よそ者と見てぞんざいなあしらいか。風は厄を運んで来る。まさにそのとおりだ。日の暮れは早くすでに山麓は陰っている。
岩松は、高台の八幡神社で一服をふかして家並を見下ろした。
川又村は山の天辺まで桑枝が茂り、蚕飼いの農家が多い。桑山を背にして川又代官所がある。近いところに相場会所が設けられて、郡部の繭や穀物はここに集められる。絹問屋、米問屋、味噌、醤油の商家が厳かに建ち並び、威勢のいい掛け声が飛び交う。景気の善し悪しが繭や穀物の値を左右する勘定高い町だ。商家と代官所役人は馴れ合いになっていて、袖の下もかつての習わしらしい。
岩松は街よりも山里が好きだった。点在する民家は、手を焙れ、お茶を飲め、しばし世間話をしながら足を休めることができる。温かい触れ合いがあるからだ。
きょうの商いはしまいにしょう。立とうとすると、乱れた足音が駆け寄って、背中を蹴飛ばされた。
「ここで何をしていた」
後ろ手に腕を捻り上げられ、手拭いのようなもので目隠しをされ、両脇から抱え込まれて、社殿の横手の小屋の中に連れ込まれた。うかつにも小屋は樹木に囲まれて気づかなかった。
首根を押えこまれて座らされる。蝋燭の臭いが鼻に付く不気味な雰囲気だ。
「この野郎は、商い屋通りを回り、代官所あたりをうろついて、いつに間にか八幡神社に現れて、おらたちを探っていたに違いねえ。境内に潜んでいたところを捕らえやした」
意外なことを咎められた。
「怪しいものじゃねえ。担い商いの岩松だ」
岩松は弁明した。
「それみろ。担い商いとは、まさに米問屋の回し者じゃねえか」
「待てや。言いがかりはやめてくれ」
「油断がならねえ。ここで放せば、代官所に駆け込まれて、おらたちの命懸けが水の泡だ」
「頭領、どうする」
「まずは、手を放してやれ。顔を確かめろ」
岩松は後ろ手を解かれると、目隠しはおのれの手でむしり取った。
蝋燭の仄暗い灯りを囲んで、頬被りの人影が円座している。この連中には思い当る節がある。問屋、商家は、百姓の繭や
穀物を否応なしに買い叩く。近ごろでは、商家に課せられた冥加金まで大引きするのを、役人は見ぬふりをしている。百姓はいつも貧乏くじを引かされて、ますます鬱憤がつのっている。
ここは、お上が禁止している百姓の寄り合いではないのか。寄り合いを知ったからには、おのれの命が危ない。
「気づいたのか」
かすかに小屋の中の気が乱れたのを感じた。
「この大事な寄り合いを乱して、迷惑千万なやつだ。人知れずのところまで御案内しろ」
頭領の声には感情がなかった。
御案内とは、担ぎ出されて、阿武隈川の崖下の底深い淀みに投げ捨てることか。それとも山奥で獣の餌食か。どっちみちお陀仏だ。
ここに太兵衛がいないか。岩松は暗がりをみまわした。しかし、それらしき男は見当たらない。もはやこれまでと覚悟したとき、
「頭領、ちょっと待ってくれ」
突然に、頬被りの百姓が蝋燭をかざした。
炎を岩松の顔に近づけ、
「おめえさんは……」
岩松の顔をつくづくと確かめた。
岩松は、おのれの目を疑った。この百姓、信夫の里の源佐ではないか。なぜこのようなところにおるのだ。
「岩松さん。源佐、源佐だよ」
地獄に仏とはこのことか。
「頭領、岩松さんはおらの親子の恩人だ。村抜けのときも、ならずものに絡まれたときも助けてくれた人だ。おらがここにおるのも、岩松さんのおかげなんだ」
こんどは源佐に助けられた。人の情けはこんなにありがたいことなんだ。
「米問屋からは雀のようにあしらわれて、百姓衆の落ち零れで命をつないでおるんです」
「百姓はみな其の場凌ぎなのだ。いまの百姓には先が無い。世の中はそのように仕組まれておる。悔しくねえか」
食い物がないと生きられないくせに、悪役人、悪商人はそこを忘れて、普請、骨董、稽古事と羽振りがよい。それに比べると百姓はみじめだ。役人の立合いで米櫃の中まで検められている。
「そりゃ、悔しくて、腹が立って、しかたがねえ」
「我慢することねえ。百姓は一揆を起こすのだ」
「とんでもねえ。おらなど、今日さえ生きられればそれだけで十分なんで、何の知恵も持たねえ愚か者だ」
口幅ったいことをいって、厄介を背負ったら、悲しむのは女房のお民だ。
「機が熟せば、村中に触れの半鐘が鳴る。それを合図に悪徳問屋や商家を打ち壊すのだ。百姓、食い詰め浪人、無宿人、誰でもよい。腹いっぱい飯の食えねえ奴らに言い触らして、賛同させるのだ」
岩松は膝が震えた。
「捕まったら、こういうのだ。打ち壊しの首謀者は、川又の百姓藤八だ。わしのことだ。藤八に威されてやった。おれは無実だというのだ」
「とんでもねえ。それでは、頭領がお縄に」
「それでよい。わしは多くの犠牲者をだした。処払い、遠島、なかには命を落とした者もおる。これ以上に犠牲者をふやしてはならんのだ。牢獄がわしを待ち構えている。わしひとりが出頭して騒動を落着にする」
藤八がいざりより、容赦なく岩松の喉元に手を押しつける。
「いやとは、いわせねえ」
岩松は、あまりの苦しさに、藤八の手を取った。手の感触は異様だった。あっ、とっさに尻込みをした。
藤八の手はつるりとして五指がない。
「儀平治」
思わず、岩松が叫んだ。この掌は、儀平治の掌ではないか。
「儀平治を知っておるのか」
「へっ、おらの倅と江戸に往ったはずが、儀平治は死んで、倅は未だに行方が知れません」
藤八は頭を垂れた。
「岩松、許してくれ。代官の不正を認めた直訴状を持たせ、江戸の評定所に向わせたのはこのわしだ。ふたりはわしを護ろうと、必死だったに違いねえ。不幸な目に遭わせてしまったのだ」
藤八の声が詰まった。
「誰の仕業かわからんが、垂れ込みがあったのだ。こんどの世直し一揆は、犠牲者の仇討でもある。
藤八は上座の闇に身を沈めた。
「わしの指は、代官所に、百姓の貧困を嘆願するたびに折檻をうけて潰された。これでは鍬も握れん。鎌も握れん。じゃが、指などなくともよい。命があるかぎり世直しをする。誰もが物を言える世の中をつくるのだ」
一切の責任はおのれが負うと、藤八は身を削ぎながら庶民を護り、すでに命換えをしているようだ。
闇に藤八の半眼が光る。
百姓衆のすすりなく声がする。
八幡神社の寄り合いは村々の総代も含むらしい。
一揆には、盗み、暴行禁止など、幾つかの掟があった。それらは、すでに総代あたりから百姓たちに触れわたって、岩松が言い触らすまでもなかった。
籠に斧を入れて出陣の覚悟ができている。風に耳を澄まして半鐘が鳴るのを待つ。すぐさま駆けつけるつもりだ。
平穏な日が半月過ぎて、痺れを切らしていた。どうも問屋、商家のようすが怪しい。暖簾が外されて番頭の声が消えている。一揆の噂が広まり、親戚あたりに身を隠しているらしい。
八幡神社には、斧、掛矢、鎌を担いだ数知れずの百姓衆が集まっていた。半眼の藤八はしっかり百姓の心を掴んでいたのだ。
にわかに半鐘がなりわたり、村々に緊迫した気が流れた。岩松は識別を失うほど血潮がたぎった。太兵衛、必ず仕返しをしてやるぞ。
八幡神社から、百姓衆が気勢を上げて駆け下りて、問屋、商家の打ち壊しが始まった。
岩松は襷をかけて鉢巻を結んで百姓衆に紛れ込んだ。先ずは味噌、醤油問屋からだ。ひんやりとして味噌の臭いがした。掛矢でかまどを叩き、斧で床板を剥がす。箪笥を壊すと贅沢な衣類が散乱した。惜しげもなく引き裂いた。茶碗は小気味よい音をたてて割れた。倉を開けて次々と味噌桶の箍を切る。味噌、醤油が流れ出した。
店の主人が現れると、情けなそうに両手をあげて降参の真似事をした。
次は米問屋。居残りの番頭と手代が打ち壊しを止めさせようと握り飯を焚いていた。ちょうど空きっ腹だ。米倉の米俵を屋外に担ぎ出すとたちまち持ち去られた。
酒屋には酒樽が並んでいる。振舞い酒をたらふく飲んで奥の座敷にむかう、銘木で造作された書院や床の間を滅多打ちにした。
代官所に役人の姿はなかった。知り合いの邸宅に潜んでいるそうだ。
威服をほしいままにした偽善者を、百姓藤八が震撼させた。
悪は許さんと、百姓衆が道理を説いた。
江戸では将軍が政権を朝廷に返上したそうだ。世の中が変わる。しかし、太兵衛が戻るまで、岩松に明日はなかった。
八
売れ残りの小豆と取り換えて、茶屋で飲んだ酒が心地よい。やはり寒い日はこれに限る。道端の萱群に向って、長々と小便をして十三日の月を楽しんだ。
歩き始めて、行く手の地蔵原にもつれあう人影を見た。かっぱらいかと思った。背丈ほど繁った萱群は、かっぱらいには恰好の場所だ。物騒な世の中になったもんだ。駆け出して止めようにも、いくぶん足がもつれるのは一杯機嫌のせいであろう。
男が起き上がったところを蹴飛ばされて、ふたたび崩れこんだ。
岩松は大声をあびせた。
「こらっ、何をしゃがる」
驚いたことに、男は倅の太兵衛と思いた。身体つきがそっくりだ。舞い戻ってこの辺りをうろついていたのか。
囲みの五人は代わる代わる男を足蹴にした。多勢にひとり、これでは命がもたない。
「もう勘弁してやんな」
岩松が仲裁に入ると、五人が振り向いて、岩松をじろりと見た。
「何だ、言い触らしの岩松じゃねえか」
言い触らしと蔑むのは、口端の強い百姓連中だ。
「こいつは百姓を泣かせる畜生だ。おらたちを見て逃げ出しやがった。逃げ出すのはやましい心があるからだ。岩松が口出すことではねえ」
百姓連中は獲物を捕らえた獣のように興奮している。
畜生といわれた男は、口元から血を垂らして痙攣を起こしている。男を膝に抱いて岩松は期待が外れた。顔が腫れて見分けがつかないが、こいつは太兵衛どころか佐太郎に違いない。
「岩松、そこを退くんだ。こいつは百姓の生き血をすう蛭のような悪だ。ゆすりたかりの悪い癖が染みついている。甘い言葉をかけちゃいけねえ。悪は根から削がなきゃ、世の中が良くなりはしねんだ。それに、こいつは、生かしておく値打ちもねえ悪なんだ」
百姓が賽をふる真似事をした。
佐太郎は博徒にも手を染めているのか。こんな萱野原に逃げ惑って、意気地のねえ野郎だ。酔いもすっかり醒めた。太兵衛だって飢えにさらされれば、死人の衣を剥ぎ取ることもやりかねない。太兵衛への思いがつのるほど、佐太郎が不憫になる。倅をかばう父親になっていた。
腹巻からむんずと巾着を摘まみ出して、岩松は土下座した。
「わずかなもんだが、今夜のところは、これでご勘弁を」
巾着が蹴飛ばされた。岩松も蹴飛ばされた。
「舐めるんじゃねえぞ。岩松、そこをどけ、どかぬか」
傷を逆撫でしたようだ。岩松は百姓の足にしがみついた。
「佐太はまだ歳が若い。これからは心を改めて、世間に償いをしてもらわにゃならねえ。悪のまま葬ってはかわいそうだ。そこをなんとか解ってくれ。どうしても許せんなら、おらを殺れ。どうせ、おらにゃ先が見えてらあ、大したことはねえんだ。若い命と換えたとなりゃ、本望だ。娑婆に未練はねえ。おらを殺れ、殺るんだ」
岩松が居直って、足を組んですわった。
百姓連中はしばらく立ち身になった。
「そういうことなら、岩松に免じて、佐太郎の命は助けてやろう。じゃがな、畜生にも百姓の痛みを知ってもらねばならねえ。腕を伸ばすんだ」
藤八の手の痛みは百姓の痛み。百姓の痛みを知れということなのだろう。指を無くしちゃ、文字も書けねえ、鍬も握れねえ。
「佐太郎は勘弁しろ、斧は籠の中に入っている」
岩松は肘をついて掌を伸べた。斧刃がひやりと指の骨に当たった。百姓が道端の重い石を抱えてきて、斧の背に、どんと落とされた。
月がかげった。
「お民、いま帰ったぞ」
家の中は暗くいろりの火も勢がない。寒気がするといっていたが、お民は寝込んでいたのか、ほつれ髪を掻き揚げながら起きてきた。
岩松は肩掛けにしてきた佐太郎を、どさりと上がりかまちに降ろした。佐太郎が顔をゆがめて起き上がろうともがく。
「無理するこったねえ。寝ておれ」
岩松はいろりに薪を足した。
お民は、何ごとか、という顔つきをしている。岩松の血糊の手拭い、佐太郎のぶざまな恰好を見て身体を震わせた。動悸を押さえるように両手を胸に添えた。
「転んだ調子に、指を挟んだのよ」
と、いっても信じないだろう。危ないことに遭ったのは察したらしい。
お民は、佐太郎と太兵衛を見誤ったらしい。佐太郎の姿格好がどことなく太兵衛に似ているから、そう思うのもお民とて同じであろう。
「太兵衛じゃねえ」
岩松になんとも言い難い寂しさがよぎった。
火が燃え盛り、鉄瓶が湯気をたてた。
「ふたりとも大怪我だな」
お民は、気丈にお湯を汲んで、手拭いを絞り、佐太郎の顔や身体の血糊を拭いた。はだけた胸肉の傷が生々しい。
「口をすすぎな。名は何というんだい」
佐太郎は、つぶやくように名をいった。
「佐太郎というのかい。おっ母さんは、お父つぁんは、村は」
お民が執拗に訊ねる。
この手の者は素性など明かさぬものだ。おおかた親に勘当された畜生だ。
「お民。そのくれえにしておけ。それより腹がへったぞ。佐太に温ったけえ汁でもつくってやんな」
岩松は、残り湯でおのれの指傷を洗い流しながら、お民をたしなめる。
佐太郎は、四日、五日と岩松の寝巻きを被って横になっていたが、盛り飯も平らげて身体もしっかりしたようだ。
お民は、佐太郎の着物を洗い、ほころびを縫うて、佐太郎の背中に着物をかけた。
「打ち身なんて、きょう、あしたに、治りやしねえ。ゆっくりしていきな」
お民自身も、いきいきとして生き甲斐を見つけたようだ。
佐太郎は、柱に背をもたれて膝を抱いて、ぼんやりと外をながめた。
「だいぶ厄介かけちまった。まだ身体は痛てえが、街に戻りてえと思うんだ」
「この寒さだもの、食うものも、寝るところもなきゃ、飢え死にだぞ」
「こんなに親切にされたの、はじめてだ」
佐太郎は珍しく笑った。お民とはだいぶ打ち解けたようすだ。
岩松が商いに出た後、佐太郎が去った。
百姓一揆のこのかた、百姓が威張りだして、商人の腰が低くなった。こうなると値段も安定して、商いに目鼻がつく。こんどはおのれが百姓に便宜を与える番だ。百姓が入用なときには金銭を貸してやる。まずは、おのれが世間の信用を得ることから始めて、米問屋の株を買う。荷車を買う。先立つものはやはり銭か。それにしてもおのれは歳が行き過ぎてどうしょうもないが、こんな夢でも見てりゃ楽しいもんだ。いや、太兵衛が戻れば正夢になるかもしれん。銭勘定はお民にまかせておいたが、貯え銭が急に気になりだした。
「なあ、お民。いま考えていることがあるんだが、いくらかでいいんだ、都合がつかねえかな」
台所のお民に返事がない。
「お民、どうした。どうしたんだ」
お民は、仏壇から引き出しを持ち出して、岩松の膝元に置いた。この引き出しが岩松の銭箱である。岩松は銭箱の中を疑った。こんなはずではねえのだが。これは、どうしたことだ。まるで空箱も同然ではないか。
「おめえさん、堪忍しておくれ」
お民は、床に両手をついて何度も頭を下げた。
「おらあ、あの佐太が、太兵衛と思えてしかたがなかった」
「なに、佐太にくれたのか」
「最初は、一回きりのつもりが、佐太は二度、三度と訪ねて、きっと堅気になるというもんだから。太兵衛と思えば嬉しくて、そのたんびに、おめえさんにはすまねえと思った」
二、三日の足しにはなるだろうからと、佐太郎に銭を握らせたのか。あの畜生に与えたのか。
「これじゃ、荷車の梶棒さえ買いねえや」
お民が隠し事をしたのは初めてだ。こういう裏切りがいちばん堪える。しばらく二の句が継げなかった。まだ晒しの外せぬ指に痛みを感じた。
お民は、佐太郎に太兵衛を重ねて、生き甲斐にしたのだろう。銭なんか働けばなんとかなるさ。それより、めっきり老け込んだお民が心配でならない。もう、髪を梳く気力も失せてしまったのか。おまえが弱気になったら、おらの足も鈍ってしまう。太兵衛はな、おめえとおのれの心の中で一緒に暮らしているんだ。そう思いや、ちっとも寂しいことなんかあるもんか。
「みっともねえから涙を拭けよ、なあ、お民」
我が家に銭がなければ、あの畜生も寄り付かないだろう。そうならまた文無しの暮らしから始めればいいじゃねえか。
九
木枯らしが川岸の木々を泣かせる。この風が止めば雪になる雲行きだ。
ここ二、三日、お民の熱が下がらずにどうもおかしい。汗に濡れたは気持ちが悪かろう。
岩松はたらいの湯でお民の身体を拭いて着替えもさせた。お民は意識が朦朧として粥さえ口にしていない。
おのれを気遣ってくれたはずのお民がこの姿とはどうしたことだ。
「お民、死ぬなよ」
お民の息遣いが川音に消された。
表戸を叩く音がする。風にしてはまともな音だ。どんよりとした一日で、酉の刻(夜の六時)あたりであろう。外はすっかり暗くなっていた。今時分に訪ねる者もおらぬはずだが、岩松が土間に下りると、
「すまねえ。佐太郎だ」
掠れた声がする。
こんな時刻に何の用だ。岩松は、むらむらと敵意がわいた。
この畜生がお民をたぶらかしていたのだ。じゃが、こんな山里のふたり暮らしの年寄りを訪ねてくるなんて、どこか変った奴だ。
岩松が心張り棒を外すと、着流しに尻を端折った佐太郎が、疲れた格好で入り込んだ。
蒼白い顔がいろりびに照らされた。
炎に手をかざして、
「ああ、暖けえ」
と、安堵の色をみせた。
佐太郎は、博徒で稼ぎ、茶屋で食った。文無しになれば、お民に銭を無心する。極道が染みついた奴は、いまさら一文銭、二文銭と慎ましい暮らしは性に合わぬのであろう。こんな佐太郎だが憎めない。
佐太郎は粥をすすりながら、
「百姓藤八が、百姓一揆の一切の責任を負うと、獄舎に入ったらしいぜ」
と、いった。
「なに、今、何といった」
百姓藤八をなんで知っている。気が許せない奴だ。しかし、それが事実なら、太兵衛の罪はどうなる。御赦免か。岩松はのどの澱が滑りおちるのを感じた。
粥をすすり終えた佐太郎は、椀を手放して、ああ、と後ろ手をついた。いい気なもんだ。
「お民さんの姿が見えねえじゃねえか」
岩松が佐太郎と向き合った。
「佐太、もうお民はだめかもしれんぞ」
岩松が奥にあごをしゃくった。
佐太郎が驚きを示した。
こんなとき、お民に会いにくるなんて、佐太郎はおのれよりお民と心が通じていたような気がする。
「お民に会ってみるか、佐太」
佐太郎はお民の枕許にひざまずいて、
「お民さん」
と、呼んだ。
佐太か……。お民の口許がかすかに動いたような気がする。
「何かいってくれ。おらは銭の無心ばかりだったが、ほんとうは、そればかりじゃなかったんだぜ。甘えてみたかったんだ。おらには親がいねえ。餓鬼のころ、口減らしに捨てられて、けちな金貸しに拾われた。金貸しは因業なやり方で米問屋にのし上がったが、その手下で働かされた。銭を持って帰らにゃ、飯がもらえねえ。人さまを威すのも身についた。世間からは畜生といわれながらも、育ててくれた米問屋の恩義は外せねえ」
佐太郎の奴、借金のとりたてで糊口をしのいだのか。情けをかけた分だけ、おのれの腹が空くということか。飢えほど辛らいものはない。お民は、佐太郎を我が子と重ねたから、その度に小銭を握らせたのだ。いや、佐太郎と縁の切れるのを恐れたのだ。雨ふりゃ、雨がどうの、風吹きゃ、風がどうのと、いつも佐太郎を気にかけていた。お民にとっては、決して無駄な銭じゃなかったんだ。
「おらは知っていたんだ。太兵衛さんを垂れ込んだ奴を知っていたんだ」
「何だと」
佐太郎がお民の手をとった。
「聞いてくれ、お民さん」
佐太郎、この機に及んで何を言い出すのだ。またお民をたぶらかす気か。
「垂れ込んだのは、おらを育ててくれた米問屋の親父なんだ。手下どもに百姓の動きを探らせて、百姓連中を陥れたんだ。情け容赦もない銭の亡者なんだ。おらは四六時中苦しんだ。悪にはもう耐えられねえ。だが、お民さんまで苦しめるわけにはいかね。だから、恩を仇で返した。親父の悪行を洗いざらい奉行所に訴えたんだ。親父が縄を打たれるのをこの目で確かめた。こんな恩知らず世間にあったものか」
佐太郎は悲壮な顔をした。
佐太郎が太兵衛の仕返しをしてくれたのか。これは正夢か。
「岩松さん。おらを殴ってくれ。気のすむまで殴り殺してくれ。どうせ、おらは生きる値打もねえ奴なんだ」
「ばかをいうな。生きる値打もねえ奴なんて、この世にあったものか」
岩松にこんな嬉しい知らせはなかった。
「お民、起きろ、起きろ。寝ている奴があるか。太兵衛が御赦免だぞ」
岩松は、揺り起こそうとした手を思わず引いた。息遣いがすこし遠のくのを感じたからだ。
佐太郎が慌てた。
「お民さんをこのまま寝かしちゃいけねえ。いっぺんでいいから城下の町医者に看てもらいてえ」
「そうしてえところだが、先立つものがなければ、そうはいくめえ」
「おらのつぐないだ。この身体を銀山に売って銭を工面するから、どうか、お願いだ」
どうか、どうか、佐太郎が岩松に頭をさげた。
「それじゃ、明日の朝、清蔵の荷車を借りるか」
「そんな暇はねえぜ。一刻でも早いがいい、おらが背負って坂をのぼってゆくぜ」
佐太郎が必死に懇願する。
岩松に町医者とは思いつかなかった。死が頭をよぎっても、日がたてば必ず回復するものと信じていた。佐太郎は強いやつだ。どうなろうと信じてみようと思った。
岩松は佐太郎の背中にお民を括りつけて、風除けに大きな布を被せた。
「それじゃ、でかけるぞ。おい、お民、寒くねえか。気を確かに持つのだ」
岩松が外に出て天を仰ぐと、頬被りした顔に雪がとけた。
「寒いと思ったら、雪が降ってきやがった」
佐太郎がお民を背負って外に出た。
「佐太、雪だ。足元に気をつけろ」
雪明りにお民の顔が小さく見えた。佐太の背中はあったけえ。お民がうわごとをいったようだ。佐太郎の背中に顔を埋めた。
お民はおのれに嫁ぎ、黙々と田畑を耕し、芽が出たと喜び、花が咲いたと喜び、幾つ春を迎えてきたのだ。幸せだったか。岩松はずり落ちた布をお民の頭上にかぶせた。町医者の煎じ薬を飲めば熱も下がる。それまでの辛抱だぞ。
白い坂道に雪が降りしきる。黙々と歩んだ。
道の途中で、佐太郎が立ちどまった。
「お父つぁん」
佐太郎が後ろで呼んだ。
佐太、いまなんといった。おのれをお父つぁんと呼びやがった。お父つぁんと呼ばれたなんて久しくなかったことだ。
「お父つぁん、おっ母さんが」
おっ母あがどうした。
「おっ母さんが……」
岩松は、はっとした。お民のやつ、娑婆と縁が切れやがったか。
佐太郎は立ちどまった。
「おらのせいだ。おらはおっ母さんを、騙して、騙して。おっ母さんは、小言ひとついわんかった。堪忍してくれ、おっ母さん」
佐太郎の涙声が嗚咽にかわった。
「佐太、何をいうか。佐太は何んにも悪くねえ。おれとお民はな。我が子と思って、佐太をもてあそんだのだ。狡いのはおれとお民なんだ」
佐太郎だって苦労を背負って生きている。辛いのはおのればかりじゃないのだ。
「おらだって、人並みに親孝行をしてえと思って、いくども他人の親を羨ましく思ったかしれねえや。おっ母さんからもらった銭で、なんど堅気になろうと、駆け廻ったかしれねえや。所詮、畜生は畜生なんだ」
「佐太、もういい。そんなにおのれを責めるな。人にはな、どうしょうもねえ、天の定めってものがあるんだ。辛くっても、悲しくっても、じっと歯をくいしばって、生きていかねばならんのだ」
岩松は、おのれの心に言い聞かせるようにいった。
「おれは、お父つぁんに、おっ母さんのぶんまで親孝行がしてえ」
「こんな愚か者だが、お父つぁんと呼んでくれるのか」
岩松は佐太郎の背に回って、お民に語りかけた。
「佐太の背中はあったけえか、お民。おめえは幸せ者だな」
雪明りの中に、お民との在り日が走馬灯のようによみがえった。佐太郎が太兵衛の仕返しをしてくれて、御赦免だ。おかげで、儀平治だってお民だって成仏できるだろう。地獄とか極楽とかなんて、所詮、今の世のことなんだ。ちくしょう。こみあげる涙を、岩松は堪えることができなかった。
枝に降りつもった雪の落ちる音がする。
おのれをお父つぁんと呼びやがって、佐太郎のやつ、夢に幸せを描いたのか。
「なあ、佐太。荷車を買って、荷車ひいて、いつしか宿場に店を構えて、水呑百姓たちを、助けてやろうじゃねえか」
めそめそしちゃならない。やらねばならんことが山ほどあるんだ。
「お父つぁん」
今夜の雪は止みそうにもなかった。
(風の坂道 了)
福島県文学賞第六十六回(小説部門 準賞)
平成二十六年三月七日発行