「松川の歴史上の人物とその名字の由来」のご紹介

松川町字一人子の三浦 富治 様が編集・発行された作品「松川の歴史上の人物とその名字の由来」をご紹介いたします。

名字の発生した古代から平安時代~江戸時代~明治時代と、歴史の移り変わりがもたらした名字の成り立ちと変遷を歴史上の人物のエピソードに触れながらたどります。自分の名字のルーツが分かるかも。今回は松川町の歴史が特にたくさん出てくる第三節 戦国時代を掲載いたします。ぜひご覧ください。

 

「松川の歴史上の人物とその名字の由来」 発行日:平成26年5月20日 編集兼発行者:三浦 富治 福島市松川町字一人子

以下横書きで掲載しておりますが、縦書きの方が読みやすい方はこちらをご覧ください。→ 「第三節 戦国時代」縦書き版(PDF272KB) 表紙~目次(PDF593KB)

 

松川の歴史上の人物とその名字の由来

三浦 富治

第三節 戦国時代

伊達氏と八丁目城
松川が歴史上はじめて文書に見えるのは、伊達家一四代稙宗が守護職に補され、その稙宗が作成した天文七年(一五三八)の「段銭帳(耕地税台帳)」であります。この段銭帳にはミつハら(水原)・八丁目・てんミやうね(天明根)・つゝミノをか(皷ヶ岡)・かねさハ(金沢)・あさ川(浅川)と有ります。また、この段銭帳には関谷は見えていません。この時代に関谷は、まだ「村」としての形態をなしていなかったのでしょうか。この関谷村の初見は、文禄三年(一五九四)の「蒲生高目録」とされています。
八丁目城は戦国時代の一六世紀、伊達稙宗(守護桑折西山城主)の支城として築かれました。その子晴宗と戦った天文の乱には、天文十二年(一五四三)八月から一年半ほど在住しています。そしてこの八丁目城が歴史上重要な役割を持つのは、天文十一年(一五四二)六月に始まった天文の乱においてであります。
八丁目城の城主は初め、堀越能登守でした。能登守は伊達家の宿老(江戸時代の家老に相当する職)といわれ、その祖家茂は駿河国(静岡県)堀越荘に住したことから堀越氏を名乗り、伊達家の祖、朝宗に従って奥州に来在し、安達郡大田郷百余町を賜ったと伝える古い家柄であります。後述する天文の乱後、晴宗は八丁目城主に清野備前守・遠江守父子をすえました。遠江守が晴宗に切腹させられた後、復帰した堀越能登守はやがて伊達氏にそむき、二本松城主畠山氏に通じ、八丁目城は二本松城主の手中に収められました。天正二年(一五七四)大森城主伊達実元(晴宗の弟)がこの城を奪回しました。畠山氏は武蔵国男衾郡畠山荘(埼玉県深谷市畠山)が発祥。畠山は平地の少ない我が国では段々畠を造って山にも作物を作ったことからの地名であります。桓武平氏の秩父重綱の子、重弘が畠山氏を称したのが祖であります。
実元が八丁目城に隠居した後はその子成実が、また、天正十四年(一五八六)以降は政宗の重鎮片倉小十郎影綱が大森城主として、八丁目城を支配しました。天正十八年(一五九○)秀吉の奥州仕置きにより城は破却されたが、おおよその城構えは残されて現在に至り貴重な文化遺産となっています。
築城に際し、南約一㌖の宿地から移されて成立した八丁目の城下町(本町・中町・天明根・向町)は廃城後の江戸時代には八丁目宿として奥州街道で屈指の賑わいを見せました。
片倉氏は宮城県から山形県に多い姓。信濃国佐久間片倉(長野県佐久市片倉)が発祥で、その地名は岩や崖の近くにある平坦地を指す地名に拠る姓です。大崎氏の家臣となって陸奥国に移り、後に伊達氏に仕えました。仙台藩の重臣として活躍しています。

天文の乱
天文十一年(一五四二)六月二十日伊達晴宗は腹違いの弟藤五郎実元の越後上杉氏への入嗣を不満として父稙宗と激しく対立し、親子の間で戦に発展しました。その上杉氏は丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)が発祥。藤原北家観修寺高藤流の清房が鎌倉幕府六代将軍宗尊(むねたか)親王に従って鎌倉に下向し上杉荘を領して上杉氏の祖となりました。永禄四年(一五六一)越後守護代を務めていた長尾影虎が上杉憲政から上杉の家督を譲られて上杉氏を名乗りました。その子景勝は豊臣秀吉の五代大老の一人となり会津若松で一二○万石を領しました。慶長六年(一六○一)出羽米沢三○万石に減封されています。
越後守護職上杉定実は跡継ぎの男子が居ないため、稙宗の子藤五郎実元を養子として、息女の婿として迎えることを伊達家に申し入れてきました。稙宗は数度にわたって、この縁組を辞退した後に承知しました。その入嗣にあたって、稙宗は家臣の中から精兵一○○騎を選んで、これを実元につけて越後へやろうとしたことから稙宗と晴宗の対立は激しく、その争いは六年にも及びました。最終的には鎌倉幕府十三代将軍足利義輝が稙宗に停戦命令を下し、続いて蘆名にあてて稙宗、晴宗の調停を命じました。これにより天文十七年(一五四八)九月に親子は和睦しました。
停戦命令を下した足利将軍は源義家の孫義康が下野国(栃木県)足利郡足利荘を本拠としたため称した氏であります。また調停に当たった蘆名氏は、相模国(神奈川県)の名族で平安時代の末から鎌倉時代にかけて三浦半島一帯を占拠していた大豪族の三浦氏の一族であるという。会津との関係は、他の東北地方の中世武士の多くがそうであるように、その祖三浦義連(よしつら)が源頼朝の奥州合戦に従軍し、その功によって会津に所領を与えられたことに始まると伝えられています。そして、戦国時代は黒川城(会津若松城)に居住していました。また、義連の父義明は治承四年(一一八○)源頼朝の挙兵に従えますが衣笠城で敗死しています。その父為継は大介とも称し後三年の役で功を挙げています。その発祥は相模国三浦郡三浦(神奈川県三浦市)で桓武平氏。蘆名と称するようになったのは、義連の子盛連頃からで、彼が三浦半島西岸の蘆名というところに住んでいたからといわれます。天正十七年(一五八九)盛重(義広)は摺上原の合戦で伊達政宗に敗れて常陸(茨城県)の佐竹氏のもとに逃れ、翌十八年(一五九○)豊臣秀吉から常陸国江戸崎(茨城県稲敷市)で四万五千石を与えられました。しかし関が原の合戦には参加せず所領が没収され、佐竹氏の家臣として出羽角館(秋田県仙北市角館)では一万五千石を与えられました。その後間もなく断絶しています。また、会津蘆名氏一族の盛幸は陸奥国耶麻郡針生(喜多方市熱塩加納)に住んで針生氏を称していましたが、江戸時代になって蘆名姓に復し、仙台藩重臣となっています。
佐竹氏は常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)が発祥。清和源氏。源義光が常陸介となって下向、その子義業が佐竹郷を領して佐竹氏を称しました。源頼朝が挙兵した際、佐竹秀義は従わなかったため奥七郡(那珂東・那珂西・佐都東・佐都西・久慈東・久慈西・多珂)を没収されましたが、頼朝の奥州合戦で功を挙げ奥七郡を回復しました。後に戦国大名として発展した義重の時には奥州南部まで勢力を伸ばしています。関ケ原合戦の際、義宣は中立だったため、後に出羽久保田(秋田市)二○万五千石に減封されました。これが秋田藩初代藩主佐竹義信であります。

関谷村を拓いた斎藤氏
明治の初め福島県が編纂した史料に「信達二郡村史」があります。これによると『天文(一五三二~五五)の頃、伊達稙宗の一族、伊達成実の家臣である斎藤但馬が、中田に鎮座する村社の八幡様の北にある大きな石窟を家として住み着いた。そして草原を拓き田圃としたのが始まりで、やがて一村を作った。そのため、石窟を家としたことから石屋と称していたがいつの頃からか関谷と改めたという。』とあります。また、天保十二年(一八四一)に信夫郡鎌田村(福島市鎌田)居住の志田白淡が著した風土記「信達一統志」では『珍しい石が八つあったから石八といいこれが関谷になった』と述べています。
石窟を家として住み着いた斎藤但馬の詳しい人物像は分かっていません。この斎藤氏は藤原利仁の子叙用(のぶもち)が伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)という神官や巫女の世話をする役所の長官になったことにより、斎宮の藤原氏ということから、斎と藤を合わせ斎藤と名乗りました。越前(福井県東部)の斉藤氏は勢力を伸ばし、ここから加賀(石川県南部)の斉藤、越中(富山県)の斉藤が出ています。斎(いつき)には神に仕えるという意味があります。この斎藤氏の「斎」が「斎」であったり「斉」や「齋」があることは、明治の新戸籍作成の時、世話人がまとめて届けたり、口頭による届出であったため役場の受け付ける側の考えで受け付けたことは既に述べたとおりです。
松川には表記を西東氏とする氏がありました。この西東氏は代々神職を勤めていることから、斉藤氏の由来を知ったうえで西東を名乗ったことも考えられます。
松川のあゆみ(松川小学校創立百周年記念誌・二六㌻)の文政・天保年間(一八二○~三○)における八丁目家主一覧と呼ばれる住宅地図によると石合町の中頃の青麻神社入口あたりに西東薩摩の家が見えています。西東家の遠祖は戦国時代の一五○○年代の中頃、八丁目城に清野遠江守その父備前守は土合舘に居住したという。八丁目城は西舘、土合舘は東舘とも呼ばれ西舘・東舘に住んだことからその子孫は西東を名乗ったと伝えられています。そして代々神職を勤め明治九年(一八七六)六月明治天皇東北巡幸のみぎり、中町の旅館玉嶋屋にご休憩の際西東広親が和歌を献上しています。明治十一年(一八七八)当時西東弘栄は大森村郷社八幡神社を初め松川村諏訪神社・八坂神社を含む九神社、関谷村四神社の祠掌を勤めています。更には寺子屋を開き和歌の指導にも当たっています。西東家の墓所は美郷団地入り口、東の高台にあります。
石合町の北に隣接する青麻山に鎮座する青麻神社は、延宝年間(一六七三~八一)信濃(長野県)の武士斎藤六右衛門がこの地に帰農して夫妻の信仰する青麻神社を勧請したと伝えられています。
斎藤春連は通称健輔。屋号を蝋燭屋といいました。明治元年(一八六八)梅歌千首を八丁目鎮座の天満宮とゆかりの地、京都の北野天神に奉詠して歌名が高く評価されています。彼もまた、西東広栄同様ご巡幸に和歌を献上しています。明治二十年(一八八七)二月六日没五六歳。
戦前から戦後にかけては本町に医師斉藤公美氏がいます。先の太平洋戦争中には軍医として従軍しています。氏は復員後の昭和二十七年(一九五二)十一月一日教育委員会が発足すると副委員長に就任しています。

伊達氏の家臣、遠藤基信は八丁目生まれ
伊達政宗の父伊達氏一六代の輝宗に仕えた家臣の一人に中野宗時がいます。宗時は信夫郡中野村を本貫(本籍・出身地)とされ、中野氏を名乗りました。その中野村の謂れは信達一統志では『飯坂の西山の麓にあり…略…当邨は西山えの入り口なり また南に三角山小丸山なと云う景山あり その中にありし原野を開発セル地なれば中野と云うなを負うせしなるべし…略…』と述べられています。このように野原の位置関係から生まれた地名による姓であります。他にも清和源氏為義流。六丈判官為義の男行家の後裔為貞が尾張国(愛知県)中野郷に居住し名乗った氏もあります。この輝宗の治世に中野宗時が首謀者となって謀反を企て、後に「元亀の変」と呼ばれる事件がありました。この事件を事前に察知し平定に努めた武将が八丁目生まれの遠藤基信です。遠藤氏は藤原南家工藤氏族という。藤原武麻呂の四男乙麻呂の子孫で工藤氏の祖木工助(もくのすけ)為憲に始まり為憲の後裔で相良維兼が天延三年(九七五)遠江守(静岡県の長官)に任ぜられ藤原の「藤」と遠江国の「遠」を併せ遠藤を名乗りました。
伊達家の文書に一○○石以上の家臣の家譜を編集した「伊達世臣家譜」があります。これによると、遠藤基信は伊達郡(正しくは信夫郡)八丁目西水原の西光寺住職金伝坊の子として、天文元年(一五三二)に生まれました。伊達家の文書には、領地の大きさを誇示しようとしたのか、信夫郡を含め、伊達郡と称していた文書が多く見受けられます。また、水原とあるが、西方には文字通り水原があります。しかし、この地は水原の東、八丁目本西を指しているものと考えられます。現在の西光寺は、かつて本西にありました。本西は本西光寺の詰まったもので「駅の西にあり ここは今の西光寺の本在りし地なり 故にこの名称あり………以下略」と信達一統志にあります。つまり、本西光寺の光寺が省かれ、本西といわれるようになったことを伝えています。金伝坊は役行者であったという。そしてその子、基信は便宜上修験の姿で岩坊と名乗り、聖護院門跡の坊官として、西国でも相当の働きと足跡を残し、諸国の政情などにも精通していました。そのような彼が縁あって輝宗に仕え、取立てられました。輝宗が織田信長といち早く交信したのは、基信の進言によるものでありました。政宗の述懐によれば、基信が来年について行った予測は、十に八つは、はずれることがなかったと言われます。そして、黒毛の馬や屋敷内で作った茶釜を信長に贈り、信長はこの釜に「遠山」と名付けて秘蔵したといわれています。
織田信長の出た織田氏は系図上では平重盛の子、資盛を祖としています。資盛の子、親真が越前国摩敦賀郡(福井県)の織田剣神社の神官となって織田氏を名乗ったと伝えられています。地名は小さい田を表す小田が織田に転じたといわれます。更に、遠藤基信は天正十年(一五八二)頃の七月一日付で徳川家康から、天正十三年(一五八五)七月二日付けで羽柴秀吉から書状を受けています。そして、秀吉にも栗毛馬一頭を献上しています。
徳川家康は旧姓松平で三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)が発祥。親氏を初代として九代家康にいたる。永禄九年(一五六六)勅許(天皇の許可)を得て松平姓から徳川氏に改めました。家康は上野国(群馬県)新田氏の後裔として清和源氏の嫡流を汲むとして松平から徳川に改めています。しかし、これは家康が将軍になるための偽作で無理につなぎ合わせたといわれています。松平の松はめでたい木で、松の生えた平らなところによる地名姓といわれます。秀吉については13㌻参照(13㌻は非掲載)。
天正十二年(一五八四)十月二十日輝宗は隠居します。輝宗に仕え、政宗が敬服していた基信を、政宗も引き続き家臣として仕えることを望んでいました。しかし、基信は「主君へ二代の出頭ハならぬものなり」という、強い信念によって仕えることを辞して、天正十三年(一五八五)八月ごろ隠居しました。基信は千五百石を賜る、後に八千石を賜るも固辞してこれを受けませんでした。
輝宗は天正十三年(一五八五)十月八日、畠山義嗣の手により二本松高田において非業の死を遂げます。葬式の日に主君輝宗の後を追って基信は自刃しようとしますが、政宗に止められ思い止まりました。しかし二七日(ふたなのか)に当る十月二十一日、輝宗の墓前で殉死しました。五四歳のことでした。基信は長井庄夏刈(山形県高畠町)の資福寺に葬られました。その場所は先に葬られた輝宗の墓の側でありました。殉死したことは政宗に深い感銘を与えることになります。そしてその子宗信に遠藤家を継がせるなど子孫を重用しました。遠藤家は「宿老」に列せられ栗原郡川口(宮城県栗原市一迫)で千八百石を領し、子孫に有能な者が輩出し、藩政時代に入って伊達家の家老職となって手腕を発揮し、宿老の家格を保ち明治維新まで続きました。
また、江戸時代中期八丁目で仕事をした鋳物師に遠藤氏が居ます。西光寺の梵鐘は寛永二年(一七四九)の鋳造で冶工遠藤左兵衛、安斉五兵衛祐真、更に鈴木新五郎正永の名が見えます。

浅川村を開発した尾形兄弟
浅川村の初見は伊達氏一四代稙宗が天文七年(一五三八)に作成した段銭帳(耕地税台帳)といわれています。従いまして、遅くともこの時代に村としての形態が整っていたと考えられます。
浅川の東端に位置する古淺川は、浅川を拓く時最初に開拓したところ、つまり古い時期に開かれた地のため古淺川と呼ばれています。また、尾形和泉は黒沼神社の神官で、その兄の若狭は浅川村を開拓した者であり、そのためこの村には尾形の姓が多いといわれます。尾形若狭の碑は舟橋観音堂の前にあると伝えられています。
江戸時代の後期に江戸まで名が聞こえた三味線作りに高い技術の持った皷ヶ岡村の尾形久米吉氏が居ます。氏は越後(新潟県)の人で、江戸で三味線作りの技術を習得し八丁目に移り住みました。奇行に富んだ職人で、三味線作りに集中すると身の回りの器物を手当たりしだい戸外に投げ出し、あるいは町内を駆けめぐり、会心の作を作ったといわれます。江戸からの注文が絶えなかったといわれています。
兄弟博士と有名なのが、尾形鶴吉・亀吉博士であります。鶴吉は浅川字椚林一六番地に明治三十年(一八九七)二月二十九日、尾形円作の孫として生まれました。福島師範学校第一部を卒業、小学校訓導(教師)を勤め、大正十年(一九二一)一月十三日、福島県教育会信夫部会から教育功労者として表彰されています。後に上京し、苦学して早稲田大学文学部史学科を卒業しました。昭和二十五年(一九五○)文学博士となっています。弟亀吉は兄鶴吉と三つちがいの明治三十三年(一九○○)六月二十八日生まれ。福島師範卒業後、小学校訓導(教師)となりました。後に上京し、日本大学文学部英文科を苦学して卒業。昭和二十四年(一九四九)経済学博士となりました。そして、日大芸術学部長、東京文化学園長、本州大学学長を歴任。昭和四十六年(一九七一)十月十日没、七一歳でした。
尾形氏は東日本に多い名字で東北南部、中でも宮城県に特に多くあります。戦国時代出羽国飽海郡大町村(山形県酒田市)に土豪の尾形氏がありました。江戸時代は同地の大庄屋を勤めています。

泉龍寺、西光寺建立は加藤氏
水原字石内の泉龍寺の由緒によると弘治三年(一五五七)愛宕館城主加藤金兵衛が山際地内に一陽山泉竜院を建立したのが初めとされています。この『加藤金兵衛は永禄年間(一五五八~七○)に愛宕館に居住し、その位牌は今も泉龍寺に残されている』と信達二郡村史にあります。さらに天保年間(一八三○~一八四三)当時下水原の名主は加藤長四郎と金入道内名主丹野又市の二人がその任にありました。
また、天明根の西光寺の開基は天正年間(一五七三~九一)大竹和泉、加藤備前の両名によって高野聖西光坊が開山しました。とは西光寺の由緒であります。しかし、既述した伊達氏家臣、遠藤基信は西光寺金伝坊の子として生まれたのは天文元年(一五三二)とあります。更に相生集からは永禄四年(一五六一)と推定されます。福島市史編纂委員を務めた梅宮氏は、史料では確認ができないが平安時代後期にはあっただろうといっています。これらのことから考えますと、遅くとも一六世紀には創建されていたと考えられます。西光寺開基の一人大竹和泉は既述の北畠顕家から地頭職を命じられた大竹氏の子孫と考えられます。
加藤氏に画家も居ます「奥州一覧道中膝栗毛」に挿絵を描いたのが加藤候一(そろいち)であります。皷ヶ岡中町の人、屋号は桝屋、通称銀五郎、呉服商で広く関東北に取引をしました。狂歌、狂画が得意で、嘉永(一八四八~五五)の頃百舌鳥逎舍(もずのやはい)と伊勢参宮漫遊しその道中に奇行が多かったという。文久三年(一八六三)正月十一日、七三歳で没しています。
加藤氏は嘉藤、可藤、河藤なども同じとされています。藤原北家利仁から七代目の景通(道)が加賀(石川県)介(介は職名で、律令制で長官を補佐する役職)となったことから藤原の藤と加賀の加を合わせ、加藤氏を称しました。その子景員(清)が伊勢に下向して伊勢での加藤氏の祖となっています。景兼は源頼朝に仕えますが、梶原景時の乱に連座して所領を失い、子景義は美濃(岐阜県)に移って美濃での加藤氏の祖となりました。越後(新潟県)新発田藩家老に加藤氏がありました。初代平左衛門清重は織田信長に仕えていましたが、本能寺の変後溝口家に転じています。また同国三条には豪商の加藤家がありました。加賀藩重臣の加藤家は前田利家に仕えて三千五百石を領した加藤宗兵衛重康が祖であります。全国的に多く、福島県に特に多い姓です。

八坂神社を勧請した中村氏
松川駅前に鎮座する八坂神社は、明治の神仏分離令が出されるまでは、牛頭天王またはてんのうさまと呼ばれていました。お釈迦様の修行道場だった祇園精舎の守り神だったとされる古い歴史のある神社です。我が国には欽明天皇元年(五四○)に尾張国(名古屋市)に津嶋神社として祀られたのが初めとされています。
八坂神社の縁起(仏教用語で社寺などの由来または霊験などを記したもの)によると元亀年間(一五七○~七三)、尾張の武士中村安秀がこの地に来て病魔退散を祈願して、尾張国(愛知県津島市)津島神社を分霊して祀ったといわれています。
中村氏は仲村、中邨、中邑も同じで、中村氏は屈指の大姓であります。中村は本村や本郷と同じで元につながる、つまり中心となる村の意であります。ここから東村氏や上村氏など方角による分村が出たといわれます。稲作の発達とともに集落が形成されていったことから、中村の地名は古代からあり現在でも各県で上位を占めています。
清和源氏為義流。六条判官為義の男左馬頭義朝の長男義平が中村を名乗った氏もあります。
大和国(奈良県)忍海郡中村郷より発祥。ほか常陸国(茨城県)新治郡中村が発祥などもあります。
陸奥国中村氏は磐井郡仲村(岩手県一関市花泉町)が発祥で葛西氏の一族。武蔵野中村氏は秩父郡中村(埼玉県秩父市)が発祥。丹党の一つで丹治時房の子時重が中村氏を名乗っています。
常陸国鹿島郡中村(茨城県鹿島市)発祥の中村氏は桓武平氏大塚氏の一族。林頼幹の二男重頼が中村に住んで中村氏を名乗っています。
相模国(神奈川県)余綾郡中村郡から起こった中村氏は同地の大族に成長しました。
北陸には藤原利仁の子孫斉藤氏から分かれた中村氏が広まっています。
また、加賀国(石川県)石川郡中村から起こった氏族もあります。後世、加賀前田藩士に中村氏が多数ありました。
甲斐(山梨県)の中村氏は清和源氏武田氏の流れや古代氏族上毛野族の後裔などで武田家臣から後に徳川旗本になった系もあります。ほかに遠江国(静岡県)発祥の中村氏もあります。

相馬軍浅川まで攻め入る
伊達稙宗が円森(丸森)城に隠退したのは天文十七年(一五四八)秋でした。このころ伊達晴宗と相馬方は緊張関係にありました。稙宗の息女は相馬顕胤が室で、相馬方と親しい関係にありました。しかし、稙宗が永禄八年(一五六五)死去すると、これを契機に本格的な抗争状況に突入しました。元亀二年(一五七一)の輝宗の治家記録によると「此年。当家と相馬殿、信夫郡浅川ニ於イテ戦アリ亘理兵庫頭殿元宗功アリ、竹ニ雀ノ御紋ヲ許サル」とあり、相馬軍は信夫郡浅川(松川町浅川)まで攻め入ったことを記しています。しかし、浅川まで攻め入った、その浅川の地は特定されていません。浅川には八丁目城主伊達氏の出城で、「ほら貝」で通報した物見であったという説もある「貝吹舘」があります。その位置は八丁目城から北東約一㌖、旧国道美郷入口から北約五○○㍍に交差する丘陵で、標高約二○八・五㍍、頂上北端には津島神社が鎮座しています。この貝吹舘を目標として争ったことも考えられます。また、信達二郡村史によると福島村(福島市)の陣場町は「慶長六年(一六○一)四月伊達政宗が大軍を率い福島城を攻める時、本荘繁長が城を守る陣を張り米沢の援路を絶ちたる所と云う」とあります。このように、陣を張った所であることから「陣場」の地名となったことを伝えています。このことから、浅川に見える陣場の地も陣を張ったところと思われ、このあたりで、一戦を交えたことも考えられます。この位置は、旧国道の福島大学入口の信号機の東から金谷川小学校のあるあたりです。
なお、この戦で、伊達家家臣亘理宗元は戦功をあげ、竹に雀の紋を許されています。
亘理氏の亘理は元々渡、亘であるが二字をもって体裁を整えた地名です。阿武隈川が氾濫して人が川を渡ることに難儀しました。しかし、この亘理あたりが比較的渡りやすく渡、亘の地名が出来たのが亘理に転じたことによる地名姓であります。陸奥国(宮城県)亘理郡亘理の領主武石氏は千葉常胤の三男三郎胤盛を祖としています。胤盛は初め下総国(千葉県)千葉郡武石を領していたことから名乗りました。後に頼朝から宇田、伊具、亘理の三郡の所領を賜り、その曾孫宗胤が乾元元年(一三○三)初めて亘理城に移り、宗胤の曾孫の代に亘理を称しました。時は暦応二年(一三三九)でした。
前述の伊達政宗の侵攻を福島城を守ったとされる本荘繁長の本荘氏は本庄氏も同族。地名姓で各地にあります。比較的関西と秋田県に多い姓です。本荘氏の本荘は後に開発された新荘園に対し、昔からあった荘園を指しています。後に開発された地名姓に新庄氏もあります。武蔵国本荘氏は児玉郡本荘(埼玉県本庄市)が発祥で児玉党の一つ。鎌倉時代は幕府の御家人となっています。越後本荘氏は桓武平氏秩父氏。季長が源頼朝から越後国小泉荘の地頭に補されて下向。子行長は同荘内の本荘に住んで本荘氏を称しました。摂津国(一部は大阪府、一部は兵庫県)本荘氏は兎原郡本荘の地に住したことによります。
話を元に戻します。この後においても相馬との対立は解消されませんでした。政宗は一五歳になる天正九年(一五八一)五月、父輝宗に従っての相馬攻めが初陣となりました。
相馬は古くは佐宇万・倉麻とも書いていました。千葉常将の六世師(もろ)常(つね)が祖で、下総国(千葉県)相馬がその本来の領地であります。文治五年(一一八九)源頼朝に従え奥州合戦で軍功があった師常(もろつね)は下総国(千葉県)相馬郡から陸奥国(福島県)行方郡を拝領して相馬氏を名乗りました。このことにより行方郡は相馬郡と称されることになったと推定されています。しかしそれがいつだったかを記す史料は見当たりません。なお、行方は平坦な地形が並び続いているところを指します。相馬郡の初見は天文九年(一五四○)十一月十四日とされています。

秀吉の検地令の本拠地となった八丁目城
天正十八年(一五九○)八月、奥州仕置き(取締り・管理すること)のため黒川城(後の若松城)にやってきた豊臣秀吉は、八丁目に陣していた浅野長政に対し、厳しい検地令を出したことは有名であります。その内容は紙面の都合上割愛しますがあまりにも有名であったため、教材として、高校の日本史の教科書に取り上げられています。この太閤の検地は、中世の銭で納める貫文制を年貢で納める石高制に代えるという大変革をもたらしました。土地の面積を正確に測り、その土質をも調べて田・畑・屋敷すべて等級別に割り出して村の生産高を米の石高で表すようにしました。
検地を命じられた浅野長政とは、天文十五年(一五四七)~慶長十五年(一六一一)。安土桃山時代の武将。尾張国(愛知県西部)春日井の安井重継の子。通称弥兵衛。初名は長吉。織田信長の弓衆で伯父の浅野長勝の養子となり織田信長に仕えました。天正元年(一五七三)以来豊臣秀吉直属の家臣として勢力を伸張し、奉行として検地、軍事などを担っています。浅野氏は美濃国土岐郡浅野村(岐阜県土岐市)が発祥による地名姓で、草木の繁りが浅い痩せた原野をいいます。

蒲生氏の信達支配
天正十八年(一五九○)八月秀吉の奥州仕置きによって、下川崎、沼袋の二村の属した安達郡は会津蒲生氏郷氏の領地とされました。翌十九年(一五九一)九月信夫、伊達両郡も蒲生氏の領地とされました。氏郷は文禄元年(一五九二)、会津黒川の地名を「会津若松」と改めています。それは氏郷の郷里、近江国(滋賀県)蒲生郡若松の森の名に因んで「若松」と名付けたといわれます。鶴ヶ城は氏郷の幼名鶴千代に因むといわれます。
蒲生氏は関東から南部に多い名字。蒲生氏郷の出た近江国(滋賀県)蒲生氏と大隅(鹿児島県)の蒲生氏が著名。蒲が生えていた地を開発したことによる地名姓です。近江の蒲生氏は蒲生郡(滋賀県蒲生郡)が発祥。藤原北家秀郷流。俊賢は源頼朝に仕えました。室町時代は足利氏に属し、戦国時代は六角氏に仕えました。賢秀の時に織田信長に従え、その子氏郷が会津若松城主なっています。近江は琵琶湖の淡(あわ)海(うみ)が近江に転じたといわれます。また蒲団は古い時代、蒲の葉を乾燥させこれを編んで坐禅などに用いる円座としたことからといわれ、布団は当て字とされています。また蒲の穂を乾燥させて綿代わりにした時代もありました。

杉目城を福島城と改めた木村吉清
木村吉清は陸奥国志田・遠他・加美・玉造・栗原の五郡(宮城県古川市)の総称大崎の地(宮城県大崎市)を領していました。これより前、斯波氏は下総(千葉県と茨城県の一部)大崎荘を領地としていましたが、家兼が奥州探題となり移り住んだため大崎氏を称しました。そして、戦国大名となると前記五郡を支配することになり、その地域を大崎と呼ぶようになりました。また、初代大崎家兼の二男兼頼が羽州(山形県)探題にになると最上氏を名乗り最上氏の祖となりました。大崎氏は一三代義隆が天正十八年(一五九○)秀吉に領地を没収され大崎の地は木村吉清の所領となりましたが、同年十月葛西大崎一揆が起こり木村氏は没落しました。その後木村伊勢守吉清は蒲生氏郷の家臣となり信夫五万石を与えられ大森城主となりました。そしてこれまで、杉目城と呼ばれていたましたが、木村伊勢守吉清が蒲生氏郷の命を受け、文禄元年(一五九二)に福島城と改称したといわれます。それは、氏郷が会津黒川城を会津若松城に改めたことにあやかり、杉目城から福島城に改めたものであります。
木村氏は樹木の茂る村を意味する地名姓で全国各地にたくさんあります。また、近江国木村郷(滋賀県蒲生町)発祥の木村は佐々木から改正した紀臣朝成高の後裔といわれます。そのほか摂津(大阪府)や紀伊(和歌山県)発祥の木村氏があります。下野国都賀郡(栃木県都賀町)木村発祥は藤原秀郷の子孫佐野市から出た足利氏族ですが足利成行の曾孫信綱が木村五郎を称しました。この系から旗本になった家や常陸佐竹氏に仕えた家があります。

信濃の武士が常円寺を建立
信濃国(長野県)水内郡奈良沢村の地頭で、奈良沢氏五代淳盛が父奈良沢民部少輔 藤原済盛公の霊を弔うため、陸奥国信夫郡皷ヶ岡村(福島市松川町)水晶沢に慶長三年(一五九八)長沢山常円寺を建立しました。それは、慶長三年(一五九八)一月越後(新潟県)春日山城主であった上杉景勝が、蒲生氏に代わって会津若松城主となり、信夫郡、伊達郡、出羽国(山形県)長井郡は上杉氏の領地とされました。その上杉氏の家臣である奈良沢氏が上杉氏に従え、信濃国から皷ヶ岡村に移り住んだものです。しかし、奈良沢氏のその後の消息は分かっていません。奈良沢氏は奈良沢村に住んだことからその村名を名乗りました。奈良沢は楢の木のある沢に因む地名といわれます。

(第三節 戦国時代 おわり)