短編小説「異境の鬼」

松川町水原の小説家 丹野 彬(たんの あきら)様の作品「異境の鬼」をご紹介いたします。

丹野 彬 様の作品は、膨大な資料に基づいた時代考証と登場人物の巧みな心理描写をもとに壮大な世界観を紡ぎだします。ぜひご覧ください。

 小説家 丹野 彬 作品集

以下横書きで全文掲載しておりますが、縦書きの方が読みやすい方はこちらをご覧ください。→ 「異境の鬼」縦書き版(PDF446KB)

 

短編小説
異境の鬼 

丹野 彬

     一

昭和十二年。十三師団若松歩兵六十五連隊は、中国の上海から首都南京を目指して、隊伍を組んで黙々と行軍している。近郊は見渡す限り綿畑。秋の風に吹かれて、綿花が揺れ動く。畑の中には貧そうな集落が点在している。刈りおくれた稲を田圃に捨て置くのは、日本軍隊が通り過ぎるまで、中国の農民は姿をくらましているからだろう。やがて太陽が彼方の丘陵に沈みかかると、黄昏のかげりで、綿花の陰が濃くなった。
もう、何十里歩いたか知れない。歩兵隊は足から疲れる。軍靴はとうに磨り減り、二枚重ねの靴下のかかとが裂けて、靴に咬み付かれるように痛い。それに、食物や日常の品々を詰めた背嚢が重く、銃も右肩、左肩と交互に担ぎ直す。すでに隊列は乱れていた。
「加藤君、加藤大輔上等兵。もう少しゆっくり歩いてくれないか」
後列から、橋本喜八上等兵が、くたびれた声で自分を呼んでいる。振り向くと、彼は肥えた身体を持て余して、足取りが心許なかった。
共に歩む浦山慎治上等兵が、橋本上等兵の銃と彼の銃とを両肩に担いでいる。了解。歩度をゆるめると、たちまち前列から遅れを取るが、構うもんか、昼夜の強行軍へのかすかな抵抗のつもりである。
小休止の伝令が走った。
兵隊の誰もが空腹を抱えての行軍だから、一斉に道端に腰を下ろして、飯盒の冷えた飯を手掴みで口に頬張り、咀嚼らしきものはない。すでに前列が立ち上がり、今夜も夜通しの行軍になるのだろう。
歩きながらも眠気が襲ってくる。背嚢に飯盒をくくりつけて、その上に鉄兜を被せてある。後ろの兵隊がよろめいて背嚢にぶつかると、その勢いに押されて、自分も前列の兵隊の鉄兜に額を打ちつける。目の覚めるような痛さだが、それでも眠気には勝てない。押し黙って歩く。
道々、故郷を思った。
自分は、福島の山村の尋常小学校の代用教員、二十七歳。教壇に立つさなかに、役場の吏員が召集令状を持って来た。いずれ、自分にも届くだろうと、覚悟を決めていた矢先の出来事だった。妻と五歳の息子と三歳の娘。妻からの便りでは、子供を祖父母にあずけて、街外れの紡績工場で働いているらしい。
出征の日には、学童たちが、兵隊先生、万歳、万歳、と、双手を挙げて見送ってくれた。彼らにとって、自分は、お国を護る名誉の兵隊先生なのである。
途中、荷車に追いついた。十三師団輜重兵十三連隊の輜重兵らしい。彼らは上海近郊から昼夜にわたり、山積みの荷車を牽いている。悪路の日もあるのだろう、車輪には泥がこびりついている。
輜重兵たちは、額に汗を浮かせて荷崩れを直していた。手を止めて、我ら歩兵隊に敬礼をした。
銃を持たない輜重兵の任務をさげすんで、歩兵隊が嘲笑うが、自分はそうは思わない。赤紙一枚で召集されて、否応無く荷を運ぶ彼らの姿に、つながりを感じるのである。
「自分ら、銃はないですが、気は楽であります」
輜重兵は意味ありげに抗弁した。気楽とは……。気にはなったが、問答する気分にはなれなかった。

意地悪く降り出した雨が鉄兜を撲る。たちまち足下がぬかるんだ。綿畑を四方八方に流れるクリークも、いつしか水嵩が増して、菱に覆われた水面に細波が立った。
突然、隊列がざわめいた。なんとしたことか、橋本上等兵がクリークに滑り落ちて、尻餅を搗いてもがいている。彼が自力で這い上がるまで、隊列を止める訳にはいかないだろう。自分は、背負った背嚢を下ろした。
赤土の堤には掴まる草木もない。土を掴むようにして滑り下りると、水の冷たさに皮膚が粟立つ思いだった。水辺の蒲群を掻き分けて、そろりと踏み込む、足底がぬるりと滑った。水の深さは三尺ほどあろうか。橋本上等兵の手を取ると、彼はきまりが悪そうに苦笑した。
頭上の道端から綱が投げ込まれた。綱の先端に橋本上等兵がしがみつくと、浦山上等兵が綱を手繰り寄せている。そういえば、彼は浜の漁夫だった。浅黒い顔に綱を握る手捌きもたくみで、腰が据わっている。自分は必死で橋本上等兵の尻を押し上げた。道に這い上がると、軍服からしずくが滴り落ちた。
「気をつけろと、言ったはずだ」
安井松夫軍曹が憮然とした面持ちで、橋本上等兵を一瞥し、粗相をした兵隊などには容赦なく隊列が動き出した。
隊列から弾き出された橋本上等兵は、右足首を捻挫したらしい、足を引き摺った。
「伍長、自分は不覚をとりました」
成り行きを見守っていた真島伍長に、橋本上等兵が詫びを言った。
「あとから悔やんでも、仕方がないじゃないか」
意外にも、伍長は平然としている。
自分は、再び背嚢を背負うと、橋本上等兵の腕を取って自分の肩に回した。
「すまん」
彼は顔を曇らせた。
同じ故郷の同胞ではないか。このようなところに松葉杖のような気の利いたものもなく、隊列から離れては、行く先を見失うこともある。それでも、彼を置き去りにはできないだろう。
「伍長、自分たちは後から追います」
「そうしてくれ、頼んだぞ」
真島伍長が隊列に戻って遠ざかると、心細さに襲われる。と同時に連隊の縛りから解放されて、久々に自由を味わった。
「自分はいつでも足手纏だ。いっそうのこと、ここから逃げ出したい」
橋本上等兵の声が雨に濡れている。
だが、このまま逃亡すれば、大陸をさまよったあげくに野垂れ死にするだろう。為す術はないのだ。
「足跡を追えば先を見失うこともない、この泥道には助けられますね」
橋本上等兵は言葉少なに、うん、と横を向いた。二人は立ち止まって水筒を口にした。
橋本喜八上等兵は三十五歳。郡山駅前の、喜八蕎麦屋の主人だそうだ。老父を妻が支えて、店は繁昌しているらしい。道々、彼は妻からの便りを語り、いくぶん気分が落ち着いたようだ。笑みを漏らしている。
東雲から仄かな明かりが射して、冷え切った心身が包み込まれた。
彼方の木立の中に、ちらちらと天幕がまぶしい。あそこに見えるのは連隊ではないか。近づくにつれて兵隊の姿が見え隠れした。手を振って合図を投げているのは、真島伍長ではないか。部下を気遣う気持ちがありがたく、心がいっぱいになった。
    
     二

昭和十二年七月下旬。日本海軍は、中国に居留する民衆のために、駐留する日本軍の兵力を増強した。これに、危惧を抱いた中国との間に、不信、疑念が生じ、ついに戦いの火蓋を切ったのである。
松井石根大将上海派遣軍司、司令官の下、第三師団(名古屋)、第九師団(金沢)、第十一師団(善通寺)の軍隊が、三十万とも思われる中国軍を相手にして、ひと月あまりの戦いは、多くの犠牲者を出しながら、日本軍は頓挫した。
その交代部隊として、萩州立兵師団長の下に、大日本帝国陸軍第十三師団が、福島県、宮城県、新潟県から召集された兵群で編成された。
彼岸を迎えようとする九月中旬。両角業作連隊長が、天皇陛下から直接に軍旗をたまわり、若松歩兵六十五連隊、通称両角部隊が構成されて、第十三師団の下部連隊となった。前師団と交代するために、第十三師団には一刻の遅れも許されなかったのである。
仙台歩兵百四連隊、高田歩兵五十八連隊、新発田歩兵百十六連隊の後列に、若松歩兵六十五連隊、三千六百九十五兵が、追い風に急かされるように進軍した。この物々しい勢力は実に壮観だった。

今夜の宿営は、灯りも、人気もない農家集落である。農民は日本軍隊が通過するまで、山麓に姿を隠しているそうだが、油断は禁物。中国軍の残兵が潜んでいて、不意打ちを食らうこともある。
銃を構えながら屋内に踏み入ると、卓袱台の上に茶碗や皿が置き去りにされて、壁際の蝋燭も、今しがた吹き消したばかりの匂いが漂っている。誰もいない住居への侵入は戸惑いがあるが、先々で食料を調達しなければならない、という言い訳もあった。
思い余って、真島伍長に訊ねてみた。
「なぜ、支那人は逃げるのですか」
「支那人は、日本兵を、東洋鬼子(トンヤンクイ)と蔑視している。支那人を殺傷して、はじめて一人前の兵隊になるのだ、などと、ほざく輩がいるからだ」
「自分は、東洋鬼子ですか」
主を追い払って、住居を踏み荒らすのは、まさに鬼子で、学童たちには見られたくない恥じる行為をしている。
「おい、麦があったぞ」
「こっちは芋だ」
「これは酒甕ではないか」
物色する兵隊たちが色めき立った。
農民たちに、穀物を持ち出す余裕がなかったらしい。炊事場のかまどには、まだ温もりが残っている。かまどに火を炊いて、しばらくぶりの温かい飯に芋汁。満腹とまではいかないが、少々の酒の匂いに酔った。

エイヤー会津磐梯山は宝の山よ
笹に黄金がエーマタなり下がる……。

手拍子で故郷の民謡を唄って、一時の至福を味わった。
「おい、あの声はなんだ。まさか、猫ではあるまい」
奥の物置場辺りに、幼児の泣き声がする。もしや、誰かが潜んでいるのではないか。一瞬、背筋の凍る思いがした。確かめようではないか。薄暗い物置場には、薪や豆柄が積まれて、その陰に古びた竹籠があった。泣き声はその中から聞こえる。竹籠の蓋を開けると、真綿に包まれた赤子が泣いている。抱き上げると、雰囲気を察したのだろう、火が付いたような泣き方になった。
母親は乳飲み子を背負ういとまがなかったのか、それとも捨てたのか。立場は違えども、我が子を異境の地に差し出した故郷の母親を思うと、胸のつまる思いがした。腹が空いているのだ。甘いものはないか。戦友に赤子を預けて屋外に出た。
星が瞬いて底冷えする晩である。母屋には本部付兵隊の寝床がある。彼らは食物には恵まれている、砂糖ぐらいは貯えて置くはずだ。幾人かの兵隊に願ってみた。
「砂糖だと、なにを滑稽なことをしておる。赤子など捨て置け」
安井軍曹が犬でも追い払うかのように掌を振った。これこそが鬼子であろう、可笑しささえが込み上げる。
次を当たろうとすると、本部付の兵隊が母屋から顔を出した。
「両角連隊長が、くれてやれと言うんでね」
南京袋の切れ端に、一握りの角砂糖が包まれていた。これで赤子の腹が満たされるなら、こんなに有難いことはない、幾度も礼を述べた。戻ってみると、戦友のふところで赤子は泣き止まなかった。さっそく鍋に白湯を沸かして、茶碗に汲んで砂糖を溶かした。戦友たちが見守っている。
「哺乳瓶もなくて、うまく飲ませられますかね」
「真綿があるじゃないですか」
「いや、大丈夫なんだ」
戦友から赤子をうけとり、ふところに抱いて、砂糖湯の入った茶碗を赤子の下唇にあてて、口の中に垂らした。赤子は夢中で飲んだ。口元にこぼれた砂糖湯を手拭でふきとった。
「加藤君。なれたものですね」
戦友が感心する。
「母乳の足りないときに、わが家ではこうして育てたものです」
故郷の子はやんちゃな盛りだ……。故郷の家族を懐かしんだ。
赤子は満ち足りた顔をして大きな欠伸をした。
「自分にも抱かせてください」
戦友に赤子を手渡すと、彼は揺すりながらあやした。
「おお、笑った。可愛いものだな」
「おい、自分にもかせよ」
戦友たちはかわるがわる赤子を抱いた。
若松歩兵六十五連隊は、二十五歳前後から三十五歳頃の兵隊が多く、大半が故郷に子供がいる、お父さん兵隊なのだ。
「おい、こいつ小便もらしやがった」
戦友が慌てている。赤子を取り上げて、腰の手拭いを外して、おしめを取り替えた。赤子は男の子である。
翌朝。集落を囲む木々は薄黒く、ひっそりと寒々しい。昨夜の残飯を掻き込んで、早々の出発である。坊主には昨夜の残りの砂糖湯を飲ませて竹籠に寝かせた。両手をばたつかせて、えくぼを浮かべている。
「坊主のくせに、えくぼなど拵えやがって」
真島伍長が覗き込んで笑った。
坊主の手はやわらかく温もりがあった。坊主ひとりを寝かせて去るのは忍びないが、部隊が集落を去れば、母親はかならず戻ってくるだろう、早くここを立ち去るべきだ。
農民の備蓄の麦や豆、芋を背嚢に詰め込んだが、思い直して、わずかな穀物を残した。背嚢を背負うと気持ちが引き締まる。行く先の見えない行軍が、今日も始まるのである。

     三

闇が深みを増している。
軍靴を鳴らすのは日本兵とも知らずに虫が鳴いている。音色は故郷のこおろぎに似て情緒があった。まるで故郷の道を歩いているような安らぎを覚えた。     
途中、闇の中に薄ぼんやりと、崩れた塀に囲まれた家屋が現れ、今夜はここで仮眠をとることにした。力尽きてそのまま眠り込む兵隊もいれば、塀に寄り添う兵隊もいる。自分は手探りで古木の根元に擦り寄った。ここならば忍び寄る朝露もしのげるだろう。背嚢を枕にすると、睡魔が押し寄せて、心地よさが闇底に吸い込まれてゆく。

「このざまは、何事だ」
覆い被さった裸木の枝先が白み始めたころ、頓狂な声で目を覚ました。薄目を開けて吃驚した。戦友の脇に寝ていたはずが、実は黒い服をまとった遺体であったのだ。
遺体は崩れた家屋の隅にも転がっている。気が付けば死臭が鼻を刺し、吐き気が込み上げる。
やがて、周囲の景色が現れると、思わず息を飲み込んだ。屋根が吹き飛び、赤い土壁が崩れて、軍服、軍靴が散乱している。集落の樹木あたりにも遺体が折重なって、なかには皮膚が落ちて骨だけが人の容貌をしているのもある。ここはまさに地獄か。このようなところに自分たちは寝ていたのだ。
この集落は、日本軍の前師団と中国軍の戦った跡ではないのか。あまりの惨事に気が動転して、喉の渇きを覚えた。
幸いなことに集落の東側に井戸らしきものがあった。覗くと水面まで六尺ほどあろうか。住人はこの水で炊事から洗濯まで賄っていたらしい。縄でバケツを降ろして、汲み上げた水は、どろんと濁っている。異境の風に晒されたせいだろう、浅黒く精悍な自分の貌がバケツの中で揺れている。水を口に含むと、すえた味と嫌な臭いが口の中に広がる。一気に吐き出してむせた。
「ここは異境だぞ。福島のように旨い水などありようない。これでもありがたいと思わにゃならん」
真島伍長が水を使いに来たらしい。場所を譲ると、彼は軍服を脱いて上半身裸になった。腰の手拭いをバケツの水で絞り、胸毛の身体を力強く拭いた。
「これでも無いよりは助かる」
真島正平伍長は、会津若松の商家の次男で軍人を志望して大陸に来ている。合気道の段持ちらしく、鍛え上げた三十五歳の身体は逞しい。上海の戦いが苦戦しているので、新参兵より、戦場なれした古参兵がよかろうと、二度目の召集だった。
自分も上半身裸になった。埃と汗と垢の臭さ、それに蠢く虱には悩まされる。ごしごしと脇腹を拭いた。筋肉質の白い皮膚が赤みを帯びた。
「臭い水も、蚊の痒さも、弾の恐ろしさも、戦地での試練はこれからだな」
真島伍長の髭が笑っている。彼からみれば、自分などは若輩者なのだ。
ぞくぞくと兵隊が集まってきた。軍服を脱いて、それぞれに上半身裸になった。水が待ち遠いらしく、バケツの奪い合いになった。
辺りには薄靄が漂って、晴れるまでにはまだ時間を要するだろう。
兵隊たちが井戸端を取り囲んでいるさなかに、真島伍長から集落外れの綿畑に誘われた。そこには真新しい盛土があった。板切れに『戦没勇士の霊』と記した墓標が立ってある。
「この墓を土饅頭というのだ。たぶん、前師団の兵隊の墓だろう」
真島伍長が挙手の礼をした。
遺体はここに眠っているのだろうが、魂は、風に吹かれ、夜露に濡れて、大陸を彷徨っているのではないか。自分らがこの地を去れば、誰が手を合わせて花を手向けてくれるのだ。自分は厳粛に挙手の礼をした。
真島伍長は、捨てられた遺体を見て、義憤に駆られたようだ。
「支那兵であろうと、支那人であろうと、死者に罪はない。土だけでも被せてやろうではないか」
「もちろんです。任せてください」
心ある戦友が賛同して、綿畑に穴を掘った。
遺体はすでに腐乱して蛆が湧いている。鳥がついばむ。汁のしたたる遺体を板戸で運んで、土に納めて土盛りをした。日本人墓地とは少々離れたところに、中国人の墓地が出来上がった。綿花を手向けて、成仏を祈った。
「君たちは、一体何をしておるのだね」
安井軍曹が気づいて歩み寄ってきた。
「こうしている間にも、前師団の兵隊が命を落しているのを忘れはしまい」
口調には怒気が含まれている。
真島伍長が軍曹の前に出た。
「また、貴様の仕業か」
「支那兵であろうと、死者に罪はありません」
「支那兵に罪はないだと、それでは誰の責任というのだね。誰の……」
安井軍曹は、痩せた口尻を歪ませて、真島伍長の頬を力任せに撲った。軍部を非難したと、勘違いしたらしい。殴ることで規律を保ったつもりであろうが、真島伍長の毅然とした態度は頼もしかった。

壊れた壁に天幕を張り、机のかわりに板戸を並べて、両角連隊長の執務室がある。連隊長の許に走った兵隊がいて、連隊長と幹部連中の打ち合わせが中断した。
「なに、支那人の墓を掘ったのか」
幹部連中は憮然として、両角連隊長の顔をうかがった。
「この広い大陸の草葉の陰には、収容しきれなかった日本兵の遺体が、野晒しになっておるはずだ。彼らを獣の餌食にしては申し訳がたたぬ。心ある支那人が、せめてそれを埋葬してくれるならありがたいことだ。支那人の遺体もそれと同じだ。構わぬ、やらせておくがよい」
両角連隊長はじろりと幹部連中を見た。

     四

彼方の丘陵に、竹林に蔽われた老陸宅と馬家宅が不気味に静まっている。中国では集落を何々宅と呼んでいる。あそこが中国軍の老陸宅要塞。南京に進むには、そこを実戦で突破しなければならず、緊張感があるのは否めない。
まずは陣地の構築。天幕を張りおえて食材を調達する。真島伍長と自分は、少し足を延ばして農民集落に向かった。農民の姿はなく、鶏が驚いて庭木の陰を逃げまどった。畑の芋に手を伸ばす自分の姿は、浅ましく、惨めで情けなかった。
浦山上等兵と佐藤一等兵は、麦藁を集めて天幕の中に敷き詰めた。寝心地のいい藁布団が準備されて、しばらくぶりに安眠が得られそうだ。
橋本上等兵は炊事番。飯盒で飯を炊いて、鍋の鶏汁が匂い立った。彼の炊く飯は、旨いと評判で、他の部隊からも飯盒を携えて見習いに来るほどだった。
戦の前の腹ごしらえに、鶏と芋はご馳走である。
戦友たちはクリークで洗濯し、ドラム缶の風呂に入り、散髪を終えて、戦いに備えた。

若松歩兵六十五連隊が攻撃するのは、手前の老陸宅である。クリークが取り囲んで、綿畑が隔てている。老陸宅の砦からは、中国軍が絶えずこちらを監視しているらしく、ときどき銃弾で威嚇してくる。相手に悟られずに、クリークまで壕を掘り進んで、そこから一挙に老陸宅を攻略する作戦である。
五十人から百人の兵隊が幾枝にも分かれて壕を掘り進む。クリークに近づくにつれて、水が滲み出て膝を濡らす。休む間も惜しんで壕を掘り続けて幾日になろうか。朝と晩に飯が届くので、陣営にはしばらく戻っていない。軍服は泥塗れて身体も疲れている。交代の兵隊が来るはずが、未だに音沙汰がなかった。
腰を伸ばすと、突き出た鉄兜が攻撃の的になり、銃弾がぶすぶすと土に突き刺さる。壕は、すでに老陸宅砦の射程内に入っているらしい。
ツルハシ (十字鍬)で土を掘り、シャベル(円匙)で土魂を掬い上げる。シャベルの柄に、ちょっとの間だけ身体を預けて、再び壕を掘り進む。
「われら、両角部隊は、まるで、もぐら部隊ではないか」
疲れ切った兵隊が愚痴をこぼす。
「弱音を吐くな。壕を掘り進めば、それだけ相手を恐怖に追い込むのだ。もうひと踏ん張りしようではないか」
 自分は、ツルハシを振り下ろした。
「そのとおりだ。母国のためにも挫けちゃならんのだ」
真島伍長が勇んでいる。
母国という言葉は、身も心も奮い立たせる麻薬である。これが宿命のように黙々と壕を掘り進む。
赤い夕陽が彼方の稜線に沈み込んだが、退去の伝令もなく、夜飯も届かない。
「本部に戻って、様子を見て来るから、貴様らは一寸でも前に進め」
安井軍曹の声がする。
宵闇空には細かな糠星が一面に輝いて、綿畑には夜露が深くおりて、急に軍服が湿りを帯びた。どこからともなく聞こえる虫の声が悲しく聞こえる。
夕刻から下腹がきりきり痛んだ。思えば、今朝に食べた握り飯はすえた臭いがしていた。慣れたとはいえ、クリークの水も相変わらず臭い。それでも、下痢にならないのが不思議だった。
便意の我慢も限界で、壕を飛び出して、綿畑で用を足す。綿花を染める大便の色は黒く、血便のようでもある。手探りで綿を掻き集めて尻を拭く。代わりの褌などあろうはずもなく、そのままズボンを迫り上げる。幾人かの兵隊も綿畑に這い上がって用を足している。
今夜は、壕に寄りかかって仮眠をとる。ときおり銃弾が壕の土を弾く。向こうも夜通しの警戒らしい。
朝日が昇ると老陸宅はすでに壕の目先にあった。丸太を組み重ねた屈強な要塞で、農家の壁も泥を厚く塗り込んで弾を防いでいる。二つの集落は連絡壕で通じているらしく、老陸宅を攻めると、馬家宅からの側面射撃を受ける。老陸宅を奪取するのは容易ではなかった。
この日、荻州立兵師団長は、中隊長たちを招集して激励した。
「いかなる犠牲を払うも辞せず、仙台百四連隊は全力決死。暁を期して馬家宅に突撃を決行すべし。若松歩兵六十五連隊も、全兵力を老陸宅に向かい、投入すべし」
仙台歩兵百四連隊が馬家宅を攻める間に、若松歩兵六十五連隊が老陸宅を奪い取る、総攻撃の作戦だった。
若松歩兵三十五連隊に全力決死の命が下った。いかなる犠牲を払うも辞せずとは、あまりにも悲壮な命令ではないか。

シャベルを銃に持ち替えて、老陸宅戦場に向かった。先発が斃れれば、自分が先発となる覚悟である。腰を屈めて壕を突っ走った。
斜めに進むと標的になる。一直線に進んで、クリークに飛び込む。土手を這い上がって、老陸宅砦を攻める。頭のなかで幾度も模擬訓練を繰り返した。
老陸宅の砦の砲眼からは、絶え間なく銃弾が飛んでくる。意を決して、綿畑に這い上がり、いもりのように両手、両足を掻きながら這い進んだ。
後方に進軍喇叭が鳴った。
老陸宅砦からの銃弾が、ばらばらとあられのように降るなかを、歩兵隊は一斉に立ち上がり、綿畑を駆け出した。砦に向かって鉄砲の引き金を引くが、老陸宅砦の守りは固かった。
左腕の袖が弾に射抜かれ、鉄兜に当たる弾の衝撃で目がくらんで倒れ込んだ。地面にしがみついたまま、身体が硬直して動けない。
巻き立つ硝煙のなかに、突っ伏す兵隊や仰け反る兵隊の呻く声が耳に刺さった。
退却。叫ぶ声がする。
後退りを見て取ったか、銃弾にも限りがあるのか、老陸宅から飛んでくる弾も少なくなったようだ。
つかのまに夥しい数の兵隊が斃れた。異様なうめき声、焼けた肉の臭い、硝煙が目を刺激する。自分の袖口から血がしたたり落ちるが、あまりの惨事に痛みを忘れていた。
真島伍長が駆け寄ってきた。黒い顔に眼を光らせて、頬に血を流している。
「加藤、大丈夫か」
「それより、伍長の頬が……」
真島伍長は手の甲で頬の血糊を拭き取り、弾に破れた自分の左袖を軍服の上から強く結んでくれた。
「ただのかすり傷です」
「そうか、破傷風には気をつけろ」
共に地獄を味わう上司に、肉親に似た深い絆を感じた。
斃れている遺体を、確かめながら、橋本上等兵、浦山上等兵、佐藤一等兵を捜したどった。
肥った遺体が横たわっている。覗き込むと、これは橋本上等兵ではないか。身体を揺り動かしても、すでに意識がなく、口元が苦痛で歪んでいる。瞼を閉じてやり、顔の汚れを拭きとると、穏やかな顔付きになった。胸元を銃弾が突き抜けている。破れた奉公袋のなかに、家族の写真が微笑んでいる。彼の垂れた両手を胸の上に合せた。
気づいた真島伍長が近寄って、橋本上等兵の無残な姿を見ても、彼は顔色一つ変えなかった。
「浦山と佐藤の安否も確かめたい。橋本、必ず迎えに来るから、少しの間ここで待っていてくれ」
真島伍長は周囲に目を凝らした。
負傷者がうろうろと歩くその先に、浦山上等兵が横たわり、その傍に佐藤一等兵が放心したように座っていた。
「浦山さんは、自分の身体を楯にして、俺を救ってくれました」
真島伍長は何も言わない。彼は、戦場の酷さを知り尽くしているのだ。
浦山上等兵は腹のあたりに血を滲ませて、意識はまだあるようだ。急がねば、自分は浦山上等兵を背負った。
「野戦病院まで駆け足だ」
野戦病院は本営の脇の崩れた農家に天幕を張って設えてある。
目を抉られ、耳を削がれ、腕をだらりと下げて、血まみれの負傷兵隊たちが支えあって、野戦病院を目指しす。途中で、力尽きて倒れる兵隊もいる。負傷兵、殉職兵は二百人、いや三百人はいるだろう。
浦山上等兵の流した血糊で、掌がぬるりとした。おっか……。彼が背中でつぶやいたようだ。急に重くなった。揺すり上げたが、しがみつきはしなかった。野戦病院を目の前にして、息が途切れたようである。
「浦山さん……」
佐藤一等兵が覗き込んで叫んだ。
浦山上等兵は、いわきの貧しい漁村で漁夫をしていた。寡黙で真面目な戦友だった。白い歯をみせてにこりと笑い、故郷から届いた魚の干物を分けてくれたこともあった。
黒く汚れた彼の顔には涙の痕が残っている。一発の弾と、ひとりの命の引き換え、戦争とはこういうことなのだ。

     五    

翌日。戦場は朝靄に包まれた。向こうも、こちらの行動は見えないだろう。靄が晴れれば見通しがよくなり、そうなると、老陸宅砦から一斉に弾が飛んでくる。遺体収容はそのときまでである。
踏み荒らされた綿畑は、いまだに硝煙と死臭が漂って、遺体がごろりと転んでいる。どの部隊の誰かなど見分けがつかない。生き残った兵隊が、手当たり次第に遺体を担架で運ぶ。運がなければ我が身であったろう。
綿花に埋もれた遺体があった。誰とも見分けがつかないほど顔が砕けている。このずんぐりとした身体つきには見覚えがあった。
兵隊はもしもの時のために、身元の判明できる何かを携帯しているものだ。遺体を探ると、奉公袋の中に丁寧に手紙が折り畳まれていた。住所は伊達郡……。この遺体は、隣村の親戚筋にあたる谷口順一ではないか、無残な姿に言葉も出ない。担架に乗せたが、見るに忍びなく、自分の軍服で遺体の顔を被った。
「そろそろ、弾が飛んでくるころだ、退去するぞ」
真島伍長が担架の前を、自分が後ろを持ち上げて、ぐいぐいと運んだ。
会津若松の駅で、偶然に谷口順一と軍隊列車に乗り合わせた。彼は近寄って来て、大輔ではないか、こんどは靖国神社で逢おう。と、言葉をかけてくれた。彼にも家族がある。この悲惨な最期を訊ねられたら、何と報告すればよいのだ。これが名誉の戦死とはあまりにも悲しい。
運び込まれた遺体は、収容所前の広場に並べられた。百体、二百体、数え切れない。衛生兵が遺体に括り付けてある奉公袋から、軍隊手牒などを取り出して、身分、所属部隊、指名、などの必要事項を記帳している。いずれは荼毘葬か、土葬にするのだろうが、今はその余裕がなかった。

戦死者の始末に追われて、すっかり忘れていたが、佐藤正男一等兵が下痢を患い、何も口にしないで、天幕の中に寝込んでいる。自分も下痢気味だが寝込むほどではなかった。
佐藤一等兵は、寝顔を歪ませて、荒い息をしている。
「おい、佐藤」
真島伍長が身体を揺り動かすと、佐藤一等兵が目を覚ました。悪夢にうなされていたらしく、額には汗を浮かしている。
「大丈夫であります」
「大丈夫なことがあるものか。軍医にお願いしてみよう」
真島伍長が天幕を出て行った。
佐藤一等兵は背を丸くして、手拭いを口に当てて咳き込み、胃液のようなものを吐いた。もしや、この症状はコレラではないか。
すでに、若松歩兵六十五連隊では、コレラに罹って六十余兵を失っている。
佐藤一等兵の背中をさすると、汗ばんだ身体はそうとう弱っているようだ。
「すみません」
「あたりまえではないか」
彼の手を両手で包み込むと、冷たい手は握り返す力がなかった。
真島伍長が担架を担いて戻ってきた。
「衛生兵から許可が出たぞ、連れていこう」
佐藤一等兵の背嚢を背負う、荷物はこれだけだった。
真島伍長が、佐藤一等兵を抱きかかえるようにして担架に移した。
佐藤一等兵二十五歳。故郷は、飯舘村農家の三男坊。口減らしのために兵隊を志願したらしく、一言の愚痴も吐かない辛抱強い青年だった。
外に出ると、どこの天幕も暗かった。明かりが漏れると攻撃の的になる。連隊本部脇の崩れかけた農家が病棟だった。呻き声が外に洩れている。
病棟の中は負傷兵で満床らしい。彼らを診まわっていた衛生兵が、こちらに気づいて近寄ってきた。佐藤一等兵の額や胸を触診すると、手を取って隅に連れて行った。隙間風の吹く病床には、幾人ものコレラ患者が横たわっている。通路に藁を敷いて、佐藤一等兵が横臥した。
真島伍長がひざまずいた。
「気づくのが遅れてすまなかった。明日、上海の病院に送るそうだ。ゆっくり療養してくれ」
幌つきトラックが重症患者や負傷者を乗せて、毎日、上海近郊の病院と戦場を往復している。それに乗せるらしい。
「病気で死ぬのは無念でなりません」
佐藤一等兵は、追い縋るように指先を伸ばした。自分の病状を知り尽くしているようだった。
「気を強く持て」
真島伍長が彼の掌を受け止めた。
病棟を出ると、真島伍長は立ち止まって未練気に、佐藤一等兵の病棟に振り返った。衛生兵によると、彼の容態は重症らしい。
橋本喜八上等兵と浦山慎治上等兵が戦死。重症患者の佐藤正男一等兵は上海近郊の病棟送り。真島伍長の配下として、供に支えあってきた戦友だった。
星が輝いている。生きるも死ぬも天の定め、佐藤君、生きて故郷に帰れよ。星に祈った。

     六

三百余りの遺体を収容しても、クリークに浮沈している遺体や、綿畑に放置された遺体は、老陸宅から弾が飛んでくるうちは手が出せないでいる。
いかなる犠牲を払うも辞せず……。
荻洲立兵師団長の苛立ちは、兵隊たちの心を暗く覆った。各々は、天幕に引きこもって、ひたすら命令を待っている。
読書がしたい、文字も書きたい、飢えているのは食物ばかりではなかった。手帳に走り書きをする。
母を手伝い、勉学に励みなさい。父は一番星に……。
明日をも知れぬ命で、家族のために何かを書かずにはいられなかった。
安井軍曹が探るような目つきで顔を出した。
「真島伍長おるか、連隊長がお呼びだ」
軍靴の手入れをしている真島伍長の手が止まった。
「加藤上等兵、貴様もだ。早くしないか」
慌てて書きかけの手帳を閉じた。

両角連隊長の居所は、屋根や壁が砲弾で吹き飛んだ空き農家の一室を、天幕で囲っている間に合わせの設えであった。両角連隊長は板を並べた机を前に、椅子に腰を下ろして、苦悩の表情を見せていた。真島伍長を見ると、おっ、と立ち上がった。待ちくたびれていた様子だった。
決死隊を編成して老陸宅を攻撃したが砦は固く、戦術をかえて後方の馬家宅を攻撃したが、これも大敗。戦うたびに多くの犠牲者を出している。両角連隊長の思案顔は何かの暗示か、自分には不可解だった。
「真島伍長は武術に長けていると聞いておるが」
「少々、居合いをたしなむ程度です」
「老陸宅の敵情を知りたい。砦の中の様子、クリークの幅、深さなども偵察してくれないか」
両角連隊長の脇に立つ安井軍曹が茶々を入れた。
「ちと、真島伍長には荷が重すぎやしませんか。あまり慎重すぎては、機を逸します」
「そうかね。日本古来の武術を生かした戦術も、参考になると思うのだがね」
「すでに、伍長は部下を失って、腹心は、これ一人きりおりません」
安井軍曹は、自分に向けて顎をしゃくった。
「自分の不徳の致すところであります」
「真島君が謝ることではない。これほどの犠牲者を出したのは、すべてが、わしの責任である。失った部下のために、是非とも老陸宅は攻奪しなければならんのだ」
両角連隊長が頭を垂れた。
「会津の兵隊は、確固たる信念を持ち合わせております。君命とあれば、自分の一身に代えても遂行いたします」
「そうか、やってくれるか。二中隊長の分も頼んだぞ。だが、死んではならぬ。必ず戻って報告してくれ」
先日の戦いで、二中隊長が負傷して、その後釜を真島伍長に担わせる。そう言うことなのだろう。
真島伍長が口を一文字に結んで決意をあらわすと、両角連隊長がじろりと自分を見る。
「加藤上等兵。君は兵隊先生だったな」
「はっ、学童らに、恥じぬよう、務めたいと存じます」
両角連隊長は、自ら真島伍長の手を握り、次いで自分の手を強く握った。
破壊、強奪、殺し合いと、戦争は苦しみや悲しみをもたらすだけで、自分は心の底から憎んでいる。連隊長の強い握りは、自分の心を見透かしているようで、少々動揺した。

軍靴から地下足袋に履きかえ、銃を肩掛けにして、軽い足取りで老陸宅砦に向かう。老陸宅を偵察して、連隊本部の作戦会議に間にあわせなければならない。
真島伍長と自分、その後に三人の兵隊が一列となり壕を進んだ。突き当たると、目の前に、クリークが水を湛えている。ここにも運びきれない遺体が黒い塊となって浮いている。
真島伍長が。立ち上がり、周囲に目を配って声を落とした。
「ここからは、自分と加藤が行く。君たち三人は壕から見張っていてくれ。老陸宅からの砲眼は夜通しであろうから、安易に頭を出さぬこと。ひととき経っても、自分が戻らぬときは、連隊本部に報告すること」
声に凄みがあった。
突然、老陸宅からの照明弾が、稲妻のように周囲を照らした。同時に弾が乱れ飛ぶ。影の揺れ、風の動きを、中国兵は敏感に読んでいるようだ。
「やはり、集落の正面は危険だ。脇にまわろう」
銃剣を肩掛けにして、真島伍長が前に出る。目の配り、足の運びはすばしこく、真似の出来るものではなかった。
クリークに足を入れると、星の明かりで水面が鈍く光って揺れた。深さは五尺ほどあろうか。泥が深く底なし沼である。水面にいくつもの竹木が浮いているのは、前師団の兵隊が、竹木を筏にして渡るつもりだったらしい。老陸宅からの射撃で没したのだろう。
ピュ、ピュと銃弾で波立った。真島伍長に習って、銃を濡らさぬよう持ち上げて、浮いた遺体を弾除けにして渡った。
一先ず、朽ちた小舟の陰に身を隠した。土手を見上げると、老陸宅脇は、黒い竹林で覆われている。
真島伍長は、腰の手榴弾を確認してから銃を構えた。
「加藤。君はここで待っていてくれ。自分は、捕らわれたら手榴弾で相手を道づれにする。この状況を連隊長に報告してくれ」
「死ぬときは一緒にと、覚悟を決めています」
「君は、命の尊さを十分に心得ているはずだ。命を粗末にしてはならん。生きて故郷に戻れ。ここから先は命懸けなのだ」
真島伍長は、厳しく言い残して闇に消えた。
待つのは長く感じられる。
伍長が気掛かりで、土手を這い上がり、竹林に足を踏み入れた。日本軍の銃弾で、竹林は途中から折れてささくれだっている。竹林の葉擦れの音が不気味で、砦の中の息遣いが聞こえるようである。
目前で何やら話し声がする。ここは老陸宅の陣地の中なのだ。人影が幻のように目の前を通り過ぎた。しばらく藪の中に身を伏せて、様子を見ていると、銃弾が飛んで竹林がざわざわと鳴動する。おそるおそる首をもたげると、むんずと肩を掴まれた。横目で見上げると、真島伍長が厳しい顔をしている。
「このままでは逃げ切れん。よいか、これから手榴弾を投げ込む。相手が驚いた隙に小舟にもどれ」
真島伍長は弾の途切れたのを見計らって、砦内に手榴弾を投げ込んだ。耳を裂くような爆音に急き立てられて、転げるように小舟にたどりつく。砦からの弾が小舟を射抜いた。クリークに飛び込むと、弾がピュ、ピュ、と水面を浪立たせる。遺体にすがりながら、必死でクリークを渡りおえて、深い息をついた。
真島伍長が壕の近くで自分を見守っていた。

若松歩兵六十五連隊の本部では、泥だらけの軍服姿の真島伍長が直立し、自分は後部に控えた。
両角連隊長が身を乗り出した。
「老陸宅に不審な行動がみられるというのかね」
「老陸宅では、どことなく慌ただしく、支那軍に撤兵の兆しがあるのです」
真島伍長は確信をもって言っている。
確かに、老陸宅では幾人もの人影が目の前を通り過ぎて行った。あれは戦意の失せた中国兵の姿であったろう。
聞き耳を立てていた安井軍曹が、喫みかけの煙草を床に捨て、軍靴で揉み消した。
「敵は、弾薬が底を突いたのだ。すぐにでも突撃すべきだ」
「撤兵と見せかけて、我が隊を油断させて、一気に攻めて来る。これは罠かもしれません、様子を見ようではありませんか」
真島伍長は、真剣な面持ちで偵察の状況を報告した。
両角連隊長は納得したかのように、かすかにうなずいた。それを見て取った安井軍曹が、文句で真島伍長の口を押さえようとする。
「ばかなことを言うな。支那人に、そんな智謀のある奴なんかいるものか」
自分も、見兼ねて口を出した。
「伍長の言うとおりでした。窮鼠猫を噛むと言うではありませんか。支那軍も必死です」
「連隊長どの、こんな弱腰上等兵に惑わされてはなりません。明朝には老陸宅に攻め込むべきです」
「我が隊は、多くの犠牲者を出して、兵隊の数が少なくなってしまった。隊を編成して作戦を練り直すつもりだが、それでも奪取できんなら、仙台隊の補佐になるだけだ」
「それでは仙台歩兵隊に、手柄を奪われてしまいます」
安井軍曹が地団駄を踏んだ。
「手柄がどうしたと言うのだね。わしはこれ以上、部下の戦死を望まぬ」
両角連隊長が安井軍曹を睨みつけた。

靄が晴れたら、再び老陸宅を攻撃する。老陸宅に向けて決死隊が編制された。決死隊が老陸宅正面を突撃するその間に、側面から奪還するおとり作戦である。
自分は決死隊に加わり、壕の中で進軍の笛の音を待った。緊張は破裂寸前だ。
日本戦闘機が老陸宅の上空に現れて、援護の銃弾を投下した。老陸宅は爆音とともに黒煙が上がった。不思議にも、老陸宅からの銃弾は飛んでこなかった。すでに、中国軍は撤退している様子だ。確かめなければならない。クリークを泳ぎ、土手を這い上がると竹林になる。老陸宅に足を踏み入れて、唖然とした。
戦闘機の銃弾の跡は生々しく、家屋は土台から崩れて、生臭い焼けた肉臭が漂っている。すでに大方の中国兵は撤退した跡で、わずかな残兵の遺体が飛び散っていた。捨てられたように、少年の遺体もあった。こんな少年まで戦争に加わっているとは、何ともやるせない思いだった。
兵隊たちが軍旗を振った。万歳三唱をして勝ち鬨を上げた。
日本軍に勝算ありと油断したその夜のことである。
中国軍は黒い塊となって、寝静まった日本軍へ夜襲をかけてきた。まさかの不意打ちであった。老陸宅に居残っていた兵隊が襲われて全滅。馬家宅の近くで警戒していた兵隊も全滅した。勢い付いた中国軍は、連隊本部にまで押し寄せて来て銃弾を放つ。
銃弾が耳元をかすめて、木の幹や家の壁を射抜いた。闇の弾ほど恐ろしいものはなく、身体を伏せて、弾の止むのを待つしかない。あやうく軍旗が倒れるところであった。
中国軍は、ひととき攻め込むと、引き潮のように撤退した。

老陸宅の綿畑は、どこまでも踏みにじられて廃地のようであった。
綿畑に大きく穴を掘って、戦死者を葬る。尺柱の墓標には、『老陸宅附近の戦闘に於ける戦没勇士の霊』、裏面には両角部隊と記された。棒を結わえた棚を白布で被い、酒、煙草、わずかな穀物を供え、歩兵隊が墓を囲んで成仏を祈った。
まだ、収容しきれない遺体もあるが、後始末を残留部隊に任せて、若松歩兵六十五連隊は、この先の江陰城から南京の首都を目指して追討行軍することになった。
上海を出るとき、三千六百余の兵も、いまでは故郷から送られてきた補充兵を加えて二千余まで減っている。
中国軍は、老陸宅砦から撤退したその夜に、報復攻撃を仕掛けてきた。今になって考えると、撤退したのではなく、いっとき生気を養って戦いを挑んで来たのだ。それを撤退したと決め付けて、勝利の旗を掲げて歓喜しているところを襲われた。多くの兵隊を失ったのは残念でならなかった。
老陸宅を偵察したときに、移動する中国兵を目撃して、自分も不思議な行動と思った。真島伍長が、急いては事を仕損じる、様子見をしようではないかと、進言したが聞き入れられなかった。老陸宅の進撃は早まらずともよかったのだが、下級兵の言い分など通用するはずがない。
煙草を一服する真島伍長に訴えた。
「多くの戦死者を思うと、悔しいです」
「日本戦闘機が援護する作戦計画を、支那軍は事前に察知して撤退したのだ。そして急遽、夜襲作戦に変えたのだろう」
 真島伍長は荒々しく煙草を吹かした。
中国軍は撤退しながら、一兵、二兵と、済し崩しに日本兵を殺めて、最後には大網を広げて一網打尽にするつもりか。戦争が長引けば、やはり自軍は不利になるだろう。
真島伍長から吸いさしの煙草をもらった。口にすると、高揚する気分が落ち着いた。過ぎたことは忘れなければならない。

     七

若松歩兵六十五連隊は、揚子江の流れに沿った道をひたすら行進する。目指すところは江陰城から南京まで。江陰城も、南京も、どのような城郭なのか、町並みなのか、想像もつかない。今日は、何月何日なのか、指折り数えてみるが、そんなことはどうでもよかった。
小休止の伝令で、枯れ草に横になった。
目を閉じると、故郷が思い出される。懐をまさぐり、片時も放したことのない千人針に触れてみた。
千人針とは、多くの婦人が一枚の布を糸で縫い、結びをつけて武運を祈る信仰である。学校の父兄会の母たちが一刺し、一刺し、縫ってくれたその思いが、修羅場から自分を護ってくれているのだろう。千人針を握り締めると、故郷の温もりが感じられる。うとうとと睡魔に襲われる。
銃弾の音で、はっと目覚めた。
うっ、とうめき声がする。
「夜襲だ。大丈夫か」
暗闇に兵隊の慌てた声がする。とっさに銃を引き寄せてみるが、うろたえるばかりだった。中国軍は地理に詳しく、退却する素早さは、まるでましらの軍団である。まんじりともせず、息を潜めて夜明けを待つしかなかった。
夜襲に遭うたびに、幾人かの犠牲者がでる。近くの畑に葬り、土饅頭に整列して、兵隊たちが黙とうを捧げる。
「加藤大輔上等兵。いっそのこと、この剣で自分の胸を突いてくれませんか」
昨夜の銃弾で、大腿が砕けた兵隊が、片手で上半身を支えながら軍刀を差し出した。立つことも、歩くこともできないのである。
「早まるな。まもなく衛生兵が追いつくはずだ。野戦病院に送ってもらおう、それまでの辛抱だ」
戦場で足の大怪我は致命傷である。涙を呑んで戦友を見捨てなければならない。
安井軍曹が兵隊の手元に手榴弾を落した。その意味を察したらしく、彼は静かに横たわり瞼を閉じた。
故郷への未練、孤独の寂しさ悔しさは断ち切れないだろう。覚悟の涙が頬を伝う。暖かい日差しが彼を包み込んだ。
出発。安井軍曹が声を張り上げて、隊列が進軍する。
誰もが無口になった。五分ほど歩いたろうか、突然、後方に手榴弾の音がとどろいた。あれは、怪我をした兵隊ではなかろうか。
さあ、急げ。立ち止まることもなく隊列が進む。まるで、餌を求めて大陸を進む動物群のように、落伍者を捨てねばならない。
うそ寂しい夕暮れのころ、後列から手送りの煙草が届いた。戦友たちと一箱の煙草を分かち合い、さらに一本を吸いまわす。煙草の火の玉が生き物ように光っては消えた。これは自爆した戦友の魂が、連隊を追い掛けて来たに違いない。

泥道から道幅の広い舗装道路に出ると、道の両端に樹木が連なった。ここが南京に続く街道になるらしい。
前進するたび中国軍に阻まれて、銃の撃ち合いになった。駆け足で逃げる中国軍を、駆け足で追い掛けたこともあった。縄で結んで補強した軍靴に、固い道路は歩きにくかった。
民家が、ちらほらと見えて、江陰の街が近づいたのを知らされる。上海から江陰までは約四十里。ここから南京まで約四十里、およそ半分の道程を進軍したことになる。
ここが江陰城か、見上げるほど高い城壁が江陰の町をぐるりと囲んでいる。外堀は揚子江から引き入れた水を湛え、岸辺には薄氷が溶けて揺らめいている。北堀には船がたむろい、船着き場になっているようだ。
城壁の中には、老陸宅の戦いで後退した中国軍が立て籠もっているのだろう。城壁の南門は仙台歩兵百四連隊、西門は若松歩兵六十五連隊が攻撃することになっている。
休憩もなく、本部から、攻撃、の檄が飛ぶ。
一斉に西門の鉄扉に銃弾を放った。鉄扉は固く閉じられて弾を寄せ付けない。歩兵隊では歯が立たなかった。
扉を前にして戸惑っていると、突然、城壁から手榴弾が落ちて大爆発が起こった。破片が足腰を逸れて飛び散った。大丈夫か、の声を聞きながら、自分は大木の根元に屈み込んで、成り行きを見守った。
陽が西に傾いたころ、城壁から飛来する銃弾を潜り抜けて、工兵中三連隊が鉄扉に爆薬を仕掛けて爆破した。西門は二重の扉で護られていて、二度目の爆破は真夜中だった。
城郭内に走り込むと、幾人かの中国兵が銃を手にして目を光らせている。自分は銃を構えた。手の届くほどの人間に向かって、銃を撃つのは初めてだった。
幼いころ、放し飼いの鶏に礫を投げたことがあった。命あるものを殺してはならんと、ひどく父親に叱られたことがあった。その父親が、勘弁しろと、鶏の首を切るのを目にしたことが頭をよぎった。
銃の引き金にかけた指が震える。中国兵よ、はやく銃を捨てて降参してくれないか。彼の頭上に狙いを定めた瞬間、日本兵隊が一斉射撃にでた。夢中で自分も引き金を引いた。苦痛に歪んだ顔で斃れる中国兵を目の当たりにした。
誰の銃弾で斃れたかは定かでない。自分が生きるための殺戮は正しい道理なのか。鶏の首を刎ねることと同じことなのか。良心の呵責にさいなまれた。荷車は重いが、銃を撃つことがない、と輜重兵が言ったのは、良心の呵責のことを指してのことなのだろう。
わずかばかりの残兵に応戦させて、中国軍は後退の時間を稼いだらしい。双方の銃弾に日本兵、中国兵が斃れた。
「万歳。万歳。万歳」
国旗を掲げて、戦友たちは泣きながら万歳三唱をした。
新たに八十余兵の戦死者を出した。
生きて一緒に故郷に帰りたかった。墓には名も知らない
冬枯れた花を摘んで手向けた。

聖旨の伝達式の予定で、二、三日、江陰城に留まることになった。両角連隊長一行が、馬で砲台見物に出かけた後、真島伍長の誘いで、歩兵も砲台に向かった。
江陰城中山門からしばらく歩くと、揚子江沿岸から高く突起した鐘山(ショウサン)という霊山が見えてくる。麓には屋根が反った古寺がある。境内には香のかおりが漂い、門前に住僧が直立ちしていた。
寺院のなかには、仏像が慈愛の眼差しで鎮座している。たとえ戦であろうと、人間を殺めた罪は罪。仏像にざんげして、心身を清めたい、縋り付きたい気持ちで合掌した。
さらに石段を上る。中腹には無数の土饅頭が鎮まっている。それらを眺めながら、勝ち戦に意気揚々と鐘山砲台に上った。これまで揚子江を航行する船の監視をしていた山砲台は、今は空しく冷たい光を放っている。
九月下旬に、二万三千の兵隊を乗せた四十五隻の船団が、大阪、神戸の港を出港した。大陸から、遺骨や怪我人など運んで来た吉野丸という船に乗り込んだ。床は血痕の臭いを放ち、すし詰めの兵隊の人いきれは、戦争の悲惨さを暗示した。
輸送船は滑るように東支那を進んで四日が過ぎ、海が黄色く濁っているのを見たときに、中国の揚子江に着いたのを実感したものだ。
そして今日。揚子江の河は、鐘山まで日本軍の掌中にあった。日本軍は安心して揚子江を航行できるだろう。その代償に幾千の命が奪われたことか。
白龍のようにうねる揚子江を挟むように果てしなく広がる大地。果たしてこの広大な大地を征服できるものだろうか。呑み込まれそうな気分であった。
   
     八

江陰城の西門から若松歩兵三十五連隊が進軍した。山砲兵十九連隊、師団衛生隊、仙台歩兵百四連隊が後列に続く。向かう先は鎮江である。
一昨日は八里、昨日は六里ほど歩いて、とうに足は悲鳴をあげている。隊伍を乱しながら、鎮江郊外の鎮江蚕糸学校にたどりついた。ここで暫くぶりの宿営である。
無精髭を剃ればみな若々しかった。故郷の民謡を唄って、三日ばかりの休養を取った。
鎮江は、その昔に、遣唐使として海を渡った僧空海が修業したゆかりの街だ。同じく遣唐使の阿部仲麻呂は、中国で出世を成し遂げたが、日本に帰れなかった偉人である。夕食後、自分の語りを、戦友たちはしんみりと聞き入った。
それにしても、遣唐使が教えを乞うために訪れた聖域と思われる鎮江を、こうして騒がせているのには納得がいかない。
早朝、若松歩兵三十五連隊が鎮江蚕糸学校の庭に整列した。老陸宅、馬家宅から江陰までの勝利の功績に、司令官から感状を賜り、それと同時に新しい命令を受けた。
「若松歩兵三十五連隊は師団から離れて、幕府山の砲台を攻略すべし」
要するに、南京を警護している幕府山砲台を占領して、軍司令部が南京入りするのを援けよ、との命令である。
「感状をいただいたからには、大手を振って、故郷に凱旋できるぞ」
安井軍曹は、兵隊たちと握手を交わしながら小躍りした。
若松歩兵三十五連隊が感状を賜ったのは、戦友が銃弾に突撃して、斃れたからである。こうして生き延びている自分には、これを賜る資格はない。
「感状は、自分たちの手柄ではありません。戦没者たちの名誉の証しです。早々に、吉報を故郷の家族に報告してください」
両角連隊長に進言すると、
「もちろんだ。それが一番の供養であろう」
連隊長は南京までの地図に目を落とした。すでに次の作戦が始まっている。

若松歩兵三十五連隊二中隊の歩兵隊は、本部隊より先に出発して、南京街道から逸れて揚子江岸の流れに沿った道を進んだ。
ひたひたと波が河岸を打つ。冷風が吹き寄せて、河面に伸びた枝先を騒がせている。
途中に風除けの樹木に囲まれた集落があった。山を背に大壁をめぐらせた農家を目指して、兵隊が駆け出した。目的は食料の調達である。飼い犬が狂ったように吠え立てた。板戸の前で耳をそばだてると、なかの息遣いが聞こえるようである。
真島伍長が注意を促す。
「よいか、支那人に手を出しはならんぞ」
「もちろんです。ここは戦場ではありません」
板戸を押すと軋んだ音がする。厚く塗り重ねられ土壁の中は意外と暖かい。高窓から差し込む明かりが、赤い敷物に零れ落ちていた。
丸顔に一重瞼の胸張った戸主らしいのが突っ立った。胡坐をかいた白髭の老人が目を光らせている。片隅に母親が子を抱きしめている。
「食料を分けて欲しいのだが」
左の掌を茶碗に、右指を箸に見立てて口に運んだ。危害を加えないと思ったか、戸主は、表情を和らげたかのようだ。
壁側に南京袋が積み上がっている。秋期に貯えた食糧であろう。兵隊たちは袋から麦や芋を無造作に取り出して背嚢に詰め込んだ。いつもながら、強奪するのは辛い。この家族から、すべてを取り上げるのは耐えられなかった。
戸主に日本軍の紙幣を握らせた。戸主は紙幣の値打ちなど知らないだろうに、めずらしそうに裏返しをして見ている。
「この支那人に南京までの道案内を頼もう」
真島伍長が自分に指図をする。
自分は、棒切れを取り出して、幕府山、南京と土間に書いて、道程を紐のように引いた。
「道案内を頼みたいのだが」
戸主が首を横に振った。
物々しく兵隊たちが戸主を取り巻いた。老人が喚きだしたが、何を言っているのか、意味不明だった。母親が子の口をふさぐと、子は声を殺して泣いた。惨めな思いをさせている。
戸主が両手を上げた。
「知道了」
家族に危害が及ぶのを恐れたのだろう、承諾という意味らしい。
穀物の強奪、人攫い。またひとつ、自分は罪を重ねた。

     九

第十三師団長萩州立兵が南京入りすることになって、にわかに慌ただしくなった。師団長が安全に南京入りするために、南京を警護する中国軍の要塞、幕府山砲台を攻奪しなければならない。
我武者らに進軍すれば、たちまち攻撃の的になるだろう。支那地図を頼りにするより、土地の者を先導に立てれば、時間の短縮になる。途中の集落から、浩宇(ハオユー)という農民を道案内人に連れて来ている。前方には幕府山が見え隠れて、浩宇の先導は迷いがなかった。
夜がくると、視界が閉ざされて、なごやかな雰囲気が一変する。
先日、江陰城で至近距離から中国兵を銃殺した。たとえ戦争であっても、自分の銃弾で殺めた人間は忘れることができない。夜陰に乗じて、苦痛に歪んだ顔、蠢く五指が、自分の良心を襲ってくる。谷底道になると、出口のない闇をさまよう錯覚に陥るのは、自分ばかりではなかった。
「この道は地獄道だ」
隊列に声が上がった。
真島伍長が先頭を歩む浩宇の肩をたたいた。
「道に間違いないか」
浩宇が輝く星を指差した。いくつかの丁字路、十字路を通り過ぎたが、幕府山、山頂の星を目印にして来たらしい。
兵隊たちが彼を取り巻いた。
「間違いないと、言っているではないか」
真島伍長が後ろ手に浩宇をかばった。
「支那人の案内は、信用出来んと言っているのだ」
安井軍曹が浩宇の胸を刀剣の先で突いた。
「一晩中、道を彷徨うつもりか」
浩宇が怯えている。
「支那人。日本兵隊を舐めるなよ。後ろ手に縛れ、座らせろ」
安井軍曹は、この中国人が気に入らないらしい。言いがかりをつけて始末をして、憂さを晴らすつもりであろう。
「加藤上等兵。貴様、この支那人を銃殺しろ。兵隊は、幾人もの人間を殺めて、一人前の兵隊に育つのだ。その機会をあたえてやろう。なんだ、震えているのか」
「農民の銃殺なんて、自分には出来ません」
死者の亡霊に怯えるより、叩きのめされる方法もある。
「気まぐれは、やめろ」
真島伍長が怒鳴った。
「貴様は、支那人が憎くないのか、死んだ兵隊を思うと、悔しくないのか」
安井軍曹は、仲間に賛同を求めるかのように、ぐるりと見回した。
真島伍長は凄んだ。彼が連れてきた中国人を銃殺にかけるのだから、内心は穏やかではないようだ。
「軍曹どの、落ち着いてくれ。そう言う事なら、自分が加藤の助太刀をしてやろう。そうだ、あそこの茂みで始末をつけてやる。それで、どうだ」
「戦友の仇だ。自分が銃殺を見届けねば気がすまん」
安井軍曹はにやりと笑って、真島伍長の胸倉を掴もうと手を伸ばす、その手を真島伍長は逆手に取った。
「痛っ、手を放せ、放してくれ」
真島伍長が力を込めると、軍曹が顔をゆがめた。
「自分らには、師団長が南京に到着する前に、幕府山を攻奪しなければならない重責がある。ひとりの支那人の銃殺で隊列を乱すつもりですか。両角連隊長が、これを許しますか」
真島伍長は、安井軍曹を隊列の前方に突き放した。
軍曹は、仰け反りながら身体を支えて、地に唾を吐いた。
「上官に無礼な態度。決して許さんぞ。忘れるな」
彼の目は狂気を感じさせた。
老陸宅の戦いでは、数多の戦死者がでた。そのときに、若松歩兵六十五連隊では、二中隊長が負傷して野戦病院に送られた。この度は、真島伍長はその代理を仰せ付かり、安井軍曹は相談役に任命されて、彼はそれにも不満らしかった。
「さあ、君たちは進んでくれ」
真島伍長が先方を指差すと、気勢を上げて隊列が歩み出した。

隊列から離れると、真島伍長は、浩宇を茂みの中に連れ込んで、後ろ手に結んだ紐を解いた。
「浩宇。タオパオ、逃げろ。家に戻ってくれ」
真島伍長が片言の中国語で促すと、浩宇は意外な顔付きをした。
「すまなかったな」
自分は浩宇の手を握った。太い節々、分厚い掌。この手が大陸を耕して、綿花や麦を収穫しているのだ。
不気味に夜鳥の鳴く声がする。暗闇に目を凝らすが、人の気配はなかった。
「早く行け」
真島伍長が浩宇の背中を押した。
浩宇は、二、三歩、踏み出して振り返り、拝むように両手を合わせた。
「謝謝」
彼の後姿が暗闇に消えると、辺りはもとの静けさに戻った。
「それでは始める、同時だ」
二人は闇空に銃を向けて引き金を引いた。二発の銃声が暗闇にこだました。
驚いて飛び立つ夜鳥の羽音がする。
「さあ、隊列に戻るぞ、急げ」
真島伍長と共に駆け出した。
今頃、浩宇はどのあたりであろうか。中国人だって血の通った人間である。

     十

夜半が過ぎて、まだ明るさも乏しい時分。揚子江岸から幕府山に通じる道路を急いだ。遠くの山間に灯りが瞬くのは、幕府山の砲台あたりであろうか、刻々と実戦が近づく。幕府山砲台を攻奪して首都南京に入れば戦争が収束する、思いはそれだけだった。
周囲がうっそうとした木立になった。この辺りに来ると、いつどこから襲撃されるか、油断がならない。肩の銃を両手に持ち替えて、緊張も限界である。
「はて、あの黒影は、なにごとであろう」
行く先をふさぐような黒い人群れと偶然に出会った。これらは中国兵ではないか。
「真島伍長、何をぐずぐずしている。銃撃すべきだ」
安井軍曹が後ろでわめいている。恐れているのだろう。
「まて、早まってはならん」
真島伍長が兵隊たちを制した。
銃を肩がけした中国兵たちが、諸手をあげて、戦意のないこと示している。
明るみが広がると、人群れは、日本兵の二倍から三倍の多さに気が付いた。なかには素足の女や子供の姿もあった。
老陸宅の戦いでは、散々日本軍をてこずらせた中国兵。この人数で襲われたら、とても敵わない。自分は脅威を感じながらも、人群れに割り込んだ。狂人のようにわめきたてる女もいる。
真島伍長が、投降兵の中から、参謀と名乗る軍服姿の少佐を割り出した。彼が、投降兵たちを取り仕切っているらしい。
「梓豪(ズーハオ)」
と、名乗った。きりりとした男振りで、道理の分かりそうな梓豪少佐である。
「自分は、真島伍長と申す。貴様ら、どこから来た」
「南京、幕府山……」
梓豪少佐が、片言の日本語と手真似をして、幕府山、南京方向を指差した。
聞くところによると、すでに日本軍は、空爆、城門へ砲撃、戦車隊が突入して、南京を略取していた。蒋介石は南京から逃れて姿をくらまし、南京の将軍も揚子江を渡って北岸へと脱出したらしい。統率者の失せた中国兵は、住民から食糧を強奪、家屋に放火、衣服を奪って着替えて、庶民に成りすまして逃亡。群衆は四散した。
この時刻、南京は日本軍の統治下にあった。
逃げ惑う南京の群衆は、城門から脱出して、揚子江を渡って対岸に逃亡するつもりが、偶然に、幕府山道路で、若松歩兵三十五連隊に出会わせたのであろう。彼らには戦意がないので、捕虜でなく投降兵として扱うことにした。
「このように投降兵が多くては、自分たちでは対処しきれません。住民は、この場で解放すべきです。投降兵については、幕府山まで連れ戻し、両角連隊長の指示を仰ぐことにしたい」
真島伍長が安井軍曹に持ちかけた。
「支那人はすべて捕虜だ。捕虜の解放には賛同できん」
投降兵たちが一斉に安井軍曹を凝視した。
「こら、自分の目を見てはならん。下を向け、下を」
投降兵の目が恐ろしいらしく、安井軍曹が後ずさりをした。
「それよりも逸早く、幕府山頂上から日本国旗を振って、幕府山攻略の成功を、南京に報告しなければなりません」
安井軍曹が目を輝かした。一番乗りに興味があるらしい。
「そうか、その役目は、自分が担おうではないか」
配下を連れて幕府山に上って行った。
武器を持つ投降兵と手荷物だけの住民に振り分けて、この場から住民を放免した。それでも、投降兵は四千を下らない。
真島伍長は梓豪少佐を手元に呼び寄せて采配をとり、投降兵に隊列を組ませて幕府山麓まで連れ戻した。
「持っている武器を捨てなさい」
投降兵への指示は、梓豪少佐を通して行われ、銃剣を土手や堀にまとめて放り出させると、いくぶん安心感が湧いてきた。
幕府山、山麓に草屋根の粗末な十棟ほどの小屋があった。雨風を凌ぐために、投降兵を収容するのには十分だった。食糧は、幕府山の食糧庫から担ぎ出したが、すべての投降兵に与えるだけの備蓄はなく、彼らは収容所の周囲の草までむしりとって口にした。
     
「椅子に腰をおろして、一服吸わないか」
両角連隊長が机上の煙草箱を真島伍長の前に寄せた。
「それでは加藤君、いただこうではないか」
真島伍長は煙草箱から一本つまんだ。自分も口にくわえた。机上のライターに火を点けて、彼の口元に差し出して、自分の煙草にも火を点けた。煙草に酔い、連隊長の細面の穏やかな目元に、癒される気分である。
「実は、捕虜のことだがね。師団長に報告したら、始末せよ、ということだ」
両角連隊長が大きくため息をついた。
師団長とは、第十三師団長荻州立兵のことである。
自分は、意外な事態を聞かされて煙草にむせった。あれほどの数の捕虜の始末とは、まるで狂気の沙汰ではないか。
真島伍長は、煙草の火を床で揉み消すと、真意を確かめるかのように、両角連隊長の顔をまじまじと見た。
両角連隊長は苦渋の表情を浮かべている。
「わしは、始末は好まぬ。誰にも悟られずに、捕虜を解放することは出来んものかね。まもなく、師団長が南京入りするはずだが、その前に……」
真島伍長は、しばし、前方に眼を据えていたが、何かを思いついたように、鈍い光を放つライターに目を落とした。そしてゆっくりと掌に包み込んだ。まさか、自分は半信半疑だった。
「承知しました。それには時間がありません」
両角連隊長は、一瞬、ライターに視線を向けたが、何も言わずに眼を逸らした。自分には、捕虜の解放に異存はないが、ライターが気になった。
外に出ると、星空が冴えている。ぎくっと、立ち止まった。安井軍曹が影のように現れて顔をしかめている。
「連隊長に呼ばれたとは何事だ」
幕府山麓は多くの捕虜を抱え込んで、いつ、どこで、暴動が起きてもおかしくない緊張に包まれている。安井軍曹の行動さえも怪しく思える。
「連隊長は、捕虜収容所の見回りをせよ、とのことですが、軍曹どのも、来られますかな」
真島伍長は穏やかな口調で矛先をかわした。
「収容所は恐ろしい。捕虜は、膨らんだ風船のようなもので、いつ暴発するか知れたもんじゃない。そうだったか、とんだ貧乏くじを引いたものだな」
 そう言うが、懐疑の眼差しである。
 安井軍曹を避けるようにして南京城門を出た。
捕虜収容所は半里ほど先にある。途中の民家に灯りはなく、日本軍を警戒して息を潜めているかのようである。ひたひたと早足になった。捕虜収容所に近づくと銃を持った警備兵が近づいてくる。
「真島伍長だ。両角連隊長の命で、捕虜を見に来たのだが、どんな様子だ」
「食糧がなくて、捕虜はそうとう腹がすいているでしょう。いまは鎮まっていますが、不満が鬱積しているはずです。警備も不安でなりません」
「これほどの捕虜だ。狂暴な事態になったら防ぎようがない。よいか、その兆しが起こったら、銃撃せずに身を隠すのだ。銃撃はならん、これは命令だぞ。他の警備兵にも、そう伝いておいてくれ」
捕虜収容所の中から喚く声がする。気が立っているに相違ない。
「伍長、大丈夫でしょうか」
「自分に考えがある」
真島伍長が軍服の物入れに手を入れて、何かを確かめたふうだ。まさか、あのライターではないか。いまさら訊く訳にはいかなかった。
捕虜収容所の内は暗闇だった。捕虜は食糧も与えられず、立膝で折り重なって、獣のように目を光らせている。呻く声もする。
「梓豪、梓豪少佐はおるか」
返事がない。
「梓豪少佐、真島伍長だ。出て来い」
声を張り上げて、伍長は焦っている。
「となりの棟に行こう」
隣棟の捕虜収容所に入ると、ここは中国語が飛び交って騒がしい。
「梓豪少佐、おるか。梓豪、真島伍長だ」
伍長が声を張り上げると、ぴたりと静まった。間をおいて、梓豪少佐が立ち上がった。捕虜を掻き分けるようにして近づいてきた。
「おお、梓豪」
伍長は親友にでも会ったように破顔した。
梓豪少佐を外に連れ出すと、中国軍の正規軍人らしく落ち着いた様子だ。
真島伍長は、軍服からライターを取り出し、火を点けて、消した。梓豪少佐の目が見開いた。
真島伍長は、小屋に火を放ち、捕虜を逃がせと言っているのだ。失敗すれば皆を焼き殺すことになる。
ライターを梓豪少佐に握らせる。彼の目が鋭い光を帯びた。
「実行は真夜中だ。タオパオ、みんなを連れて逃げろ」
「謝謝」
梓豪少佐は真島伍長の手を握り返した。
片言の会話だが通じたようである。あたりに気づかれた様子はなく、梓豪少佐が捕虜収容所に戻るのを確かめて、人知れず宿営に戻った。
兵隊たちは深い眠りに就いている。自分は目が冴えて眠れなかった。
梓豪少佐が捕虜収容所に火を放つ。燃える騒ぎに捕虜たちが脱走する。南京には戻れないだろうから、逃走先は、山中か、揚子江海岸あたりであろう。それとも、逃げ場を失って捕虜収容所とともに焼死となりはしないか。煙に巻かれて逃げ惑う捕虜の姿を想像した。  
毛布を掻き揚げて真夜中になるのをひたすら待つ。軍靴の音が鳴った。寝床から起き上がり軍服に腕をとおした。すでに真島伍長の寝床は空だった。外に出ると、幕府山方向が薄ぼんやりと明るいのは錯覚だろうか、目頭を拭いた。

両角連隊長の宿舎が騒がしくなっていた。
「幕府山の捕虜収容所が火災に遭いました。炊事からの出火らしく、二棟とも全焼だそうです」
捕虜収容所の警備兵が連隊長に報告している。
「それで、捕虜はどうしたのかね」
連隊長はすでに軍服に着がえて執務椅子に腰を下ろしている。
「捕虜の約半数は四散したらしいのですが、まだ、二千人ぐらいは収容所に残っております」
「ご苦労であった。引き続き捕虜の警護を頼む」
警備兵と入れ代わりに、真島伍長と自分が呼ばれた。
「一人でも多く脱走すれば、わしの心の負担も軽くなるのだが、まだ二千人ぐらいが捕虜収容所におるらしい。舟を調達して、残りの捕虜を揚子江対岸に解放してくれないか」
「承知しました。これから揚子江岸を整備して、舟を調達して対岸に、解放します」
真島伍長が自分に賛同を促す。
「自分も、事態の収拾に務めます」
だが、捕虜と言葉の通じないもどかしさには、一抹の不安もあった。
「まもなく、軍事司令官が南京入りすることになっておる。それまでに捕虜のことは解決済みとして終らせたい」
捕虜を解放する、連隊長の考えは、正しい判断と思える。戦の収束に向かって、明るい兆しが見えてきたようだ。

揚子江は幕府山捕虜収容所の北側になる。河は、揚子江岸の赤泥黒泥をひたひたと舐めて、のうのうと流れている。岸を被った柳の木々は生気なく冬枯れて、枝先が風に委ねている。  
岸辺の柳の木に足をかけて、切り倒して枝を払った。足を踏み外せば流れに呑み込まれてしまう。慎重を要する作業である。
切り倒した木を兵隊たちが結束する。桟橋を架けて捕虜を舟に乗せる。溜まり場の道は狭く、広さはどのぐらいあればよいのか、などと、声を掛け合いながら、枯草を刈り込んだ。
夕暮れになる頃、沿岸の民家を走り廻った兵隊が、軽舟艇、何艘かを調達してきた。水夫も地元の腕の立つ者を呼び寄せた。軽舟艇を桟橋の付近に繋ぎ止めて準備が整った。
真島伍長の率いる二千余の捕虜が四隊列で到着した。捕虜たちは溜まり場に整列したが、不安な眼差しで落ち着きがない。すでに、梓豪少佐の姿はなく、捕虜を統率する気の利いた捕虜はいなかった。
桟橋に軽舟艇が横付けされた。
「足下に気をつけろ」
彼らを対岸に解放すれば、戦争は収束する。彼らを一列に並ばせて軽舟艇に乗せる。うっすら翳っている揚子江対岸に向けて、軽舟艇が滑り出した。二百人ぐらいは乗れただろうか。
揚子江の中流あたりで、突然、銃声がとどろいた。見る間に軽舟艇が押し流された。日本軍の渡河攻撃と誤ったらしく、対岸に潜んでいた中国軍が拳銃を放ったのだ。
溜まり場の捕虜たちは、この銃声に驚いて、捕虜を揚子江に連れ出して銃殺する、と思い違いをしたらしい。
わっ―。一斉に猛り狂って逃げ惑った。
「静まれ、静まれ」
真島伍長が駆け寄って暴動を鎮めようと立ちふさがると、ますます興奮して襲いかかってくる。
自分は捕虜に取り囲まれて逃げ場を失った。突然、後頭に強い衝撃を受け、突き転された。自分が切った柳の棒を振りかざして、捕虜たちが身体を連打する。隙をみて立ち上がり、捕虜に挑み掛かった。満身の力で相手の顔面に拳骨を放った。殺らなければ殺られる。だが、多勢の捕虜には適わない。腰を足蹴にされて再度倒れこんだ。捕虜の目は飛び出るほど大きく、血走り、裂けた口が吼え立てる。殺られる。
「危ない」
真島伍長が飛んできて、つぎつぎと捕虜に当て身を食らわせた。
銃声が鳴った。
捕虜が揃って倒れ込んだ。河に飛び込む者、山に逃げる者を銃弾は容赦しなかった。血まみれになった捕虜たちが、苦しみもがいて斃れている。
「撃つのは止めろ、捕虜を撃ってはならん」
真島伍長が日本兵隊に向かって諸手を上げた。その瞬間、伍長の身体を弾が射貫いた。自軍の銃弾が伍長を斃したのである。
真島伍長に這い寄ると、軍服の丹田あたりが破れて抉られている。彼は折敷の据わりで身体を支えた。
これは現実なのか、夢なのか、実感が湧かなかった。呆然と景色がかすんで、涙も声も出なかった。
真島伍長がか細い声を振り絞った。
「先の戦でも、多くの戦友が戦死した。故郷に帰ると、生き様を人目に晒すことになり、自分は自分に恥じた。靖国神社で戦友と会うのが、俺の凱旋なんだ」
真島伍長の目がうつろになった。加藤、世話になった……。真島伍長は静かに息を引き取って、重い身体を自分に預けた。
濁った風が大陸の枯れ草にまといついた。

翌日。おびただしい捕虜の遺体が揚子江岸の溜まり場に折り重なった。兵隊たちは、遺体を担架で運んで揚子江岸から流れに捨てた。遺体は浮いては沈み、浮いては沈んで波間に呑まれて行く。
河面を黒い鳥が飛んだ。遺体をついばみに来たのだろう。追い払おうにも声がでない。そればかりか涙もでない。心が閉じてしまった。

     十一

両角連隊長は瞼を腫らして疲れた表情をしている。五十二歳での大陸の行軍は身体に堪えるらしい。
「日本兵を荼毘に付したのかね」
真島伍長を含めて、七十余名の兵隊が戦死している。
「はっ、滞りなく納めました」
「ごくろうであった。これほどの部下と捕虜を死なせて、辛くてたまらん」
両角連隊長は、目をしばたたいて、こみ上げるものを堪えているようだった。
「若松歩兵六十五連隊は兵が足りず、戦力が弱体化してしまった。郷里の福島では相当の数の赤紙が配られているそうだ。そこで、わしは近々、軍に出向いて戦いの収束を進言するつもりだ」
「召集令状ですか」
思わず、連隊長から目を逸らした。赤紙を手渡されて、
狼狽したあの日を思い出した。赤紙一枚に一発の銃弾。この大地に斃れた多くの戦友を思わずにはいられなかった。
南京を攻略したら戦争が収束すると思い込んできたが、軍の目的は、自分の及ばないところにあった。
若松歩兵六十五連隊は南京に留まることなく、徐州を目指して進軍する。

勝ってくるぞと勇ましく
誓って故郷を出たからは……

兵隊が軍歌をうたって士気を高めている。
老陸宅の戦い、江陰城の戦い、南京の戦いには、相当な数の兵隊が斃れた。置き去りにしてきた遺体も数知れない。
親しかった戦友を失って、泣きながら軍歌う兵隊もいる。軍歌を聴いて志願した兵隊もいるそうではないか。だが、現実は惨めなものである。
両手で耳をふさぐ兵隊がいた。
「軍歌は、歌わないでくれ」
悲痛な叫びは、夕暮れの風に消された。
大谷忠雄一等兵が駆け寄ってきた。
「加藤上等兵、あの夕日をごらんください」
彼は補充兵として着任したばかりの二十三歳。白河の農家の次男坊らしい。童顔の残る青年であった。歌が得意らしく、いつも鼻歌を口ずさんでいる。
南京から自分の部下に就いた。この先、この若者が戦争地獄をさまよう姿を見るのは忍びない。
行く手の大地に、沈もうとしている太陽が燃えるように輝いた。あれは、異境の鬼となった戦友の流した血の色であろう。ああ、なんと神々しい。心の中で合掌して、地平の果ては戦争のない浄土でありたいと祈った。
頬を撫でると髭がざらついて、ひと回り大きくなったような気構えである。
(了)

令和三年十月二十日 上梓