短編時代小説「百姓侍」

松川町水原の小説家 丹野 彬(たんの あきら)様の作品「百姓侍」をご紹介いたします。

丹野 彬 様の作品は、膨大な資料に基づいた時代考証と登場人物の巧みな心理描写をもとに壮大な世界観を紡ぎだします。ぜひご覧ください。

 小説家 丹野 彬 作品集

県文学集 第55集 -第60回福島県文学賞作品集- 編集者兼発行者:福島県教育庁生涯学習文化グループ 印刷所:㈱山川印刷所(平成20年3月31日発行)掲載<小説部門 奨励賞 受賞作品>

 ※忙しい人向け 短編時代小説「百姓侍」あらすじまとめ(若干のネタバレ注意)

以下横書きで全文掲載しておりますが、縦書きの方が読みやすい方はこちらをご覧ください。→ 「百姓侍」縦書き版(PDF329KB)

 

短編時代小説
百姓侍
丹野 彬

     一 

「兄ちゃん、悔しくねえのか。百姓衆に剣術教えてやれよ」
耕作のあいまに荷車をひいて、城下町で炭荷をおろした帰り道、荷車の後を押しながら信太郎が棘のある声でいった。押す力がぞんざいなのは肚に据えかねているからであろう。
「そりゃ、悔しくねえことあるものか。だけんど、わしらは百姓だぞ。百姓に剣術なんか要らねんだ」
鍬で鍛え上げた厚い胸倉をはだけた平兵衛が、荷車をぐいとひいた。
博徒勝五郎一家は、巧妙なやり口で百姓に銭を貸付け、阿漕な取立てをし、ついには脅しで田畑をとりあげている。和田村でも数件やられているらしい。それに憤懣をいだいた百姓衆が、夜ごと村の八幡神社の境内に集い、竹棒やら木棒をふりあげて剣術の稽古をしている。博徒一家が村に入り込まぬよう、用心に越したことはないというのだ。
「兄ちゃんはそんなだから、村の連中までがのっそりの丑と陰口をたたきやがる。おらあ、聞くたんびに肚がたって、しかたがねえぜ。剣術教えてやれよ、なあ兄ちゃん」
のっそりとした大柄な平兵衛をみると、才覚のない連中が、ついのっそりの丑とからかいたくなるのであろう。
「丑で好いではねえか。いわせておけや、人の口に戸は立てられめえ」
百姓がひと月ふた月と剣術の稽古をしたとて、博徒一家に勝てるものではなかろう。向こうは浪人者やごろつきを雇って警戒しているそうだ。
民家が途絶えて狐坂峠を越えると、雑木林の中は下り道がつづく。平兵衛は荷車をとめて梶棒をしっかり握りしめた。
「信太、乗れや」
「いいや、兄ちゃんにひかせておれが乗れるか」
信太郎はおのれの背中で育ったようなものだ。背中で喚いたり、漏らしたり、ずいぶんと困らせたくせに、今更なにをいっておる。ぐずる奴があるか。
「いいから乗れよ」
「おらあ、恥ずかしいぜ」
そういいながらも信太郎は荷車に飛び乗った。こんな時刻に出歩く奴なんかおらぬし、
「恥ずかしいことなんかあるものか」
そういいながら、平兵衛はひたすら荷車をひく。わだちの響きも心地よく、寝そべった信太郎がごとんごとん揺られていい気なものだ。
「兄ちゃん、やっぱりおらあ、恥ずかしいぜ、お月さまがみてらあ」
このやろう、甘えやがって。平兵衛の顔がほころんで、ふふと笑った。
天には十四日の月が浮かんでいる。
和田村の関の地蔵原までくると、行く手に、枯れすすきをなぎ倒し、人らしき影が争っている。まさか追剥ぎでもあるまい。月明かりに透かし見ると、こんどは倒れたのを寄って集って足蹴にしているところだ。荷台の信太郎もさっして素早く飛び降りた。
「兄ちゃん、あれは……」
「いいか、手荒な真似するんじゃねえぞ」
信太郎をたしなめながら、何食わぬ顔で平兵衛は荷車をひいた。無抵抗の奴をそこまでやるのは怨恨であろう、まんがいち打ちどころが悪ければ死ぬことになりかねない。これは捨てておけぬ。平兵衛は近づいて、
「お晩です」
荷車を寄せた。
のっそりと突っ立つ平兵衛をみて、三人組の男がしりごみした。まさか荷車が現れるとは番狂いであったろう。姿格好からして、この奴らは城下街のごろつきのようだ。
「何事だ」
平兵衛がたずねると、ひしゃげ顔が顎をつきだして、
「いいから、さっさと通りすぎな」
行く手を指した。
道端にうずくまるのは百姓のようだ。怪しんで、奴らと百姓を見くらべると、なすび面が虚威をはった。
「こいつはな、勝五郎親分の銭を口先でちょろまかしたのよ。甘い顔すると付け上がるし、追いかけると茅場に逃げ込むし、すこし痛めつけねえと図に乗りやがるし、まったく狡くてしかたがねえ。だがよ、おめえさんには関わりのねえこった、さっさと通りすぎな」
さらに蹴りのおまけがつく。
この奴らが鬼の勝五郎の子分どもか、どうりで派手なことをしてくれる。
「勘弁してやんな。これいじょう蹴ったらお陀仏だぜ。そうなったら本も子も無くなるぞ」
「えらいお世話だ。こいつがどうなりようと知ったことかい。こいつにはまだ田畑がのこってらあ」
なるほど、目当ては田畑か。平兵衛は子分どもを無視して、倒れているのをひょいと抱きかかえ、
「どれ、どれ、おめえさん、どんな具合だね」
仰のけざまに荷台にのせた。袷や股引が裂かれて血が滲んでいる。
こいつは見覚えがあるぞ。たぶん和田村の百姓に違いない。百姓が虫の息でつぶやいた。おめえは丑か……。助けを求めているのであろう。笑みを浮かべてやると、ぐったりした。 
「てめえ、何しゃがる。勝五郎一家に楯突くきか」
子分どもは呆気にとられていたが、なかでも腕に自信のありそうな毛むくじゃらが、平兵衛の手を狙って襲ってくる。半身にかまえた平兵衛は、素早く毛むくの小手を押さえ、背後に入り身して逆手に捻り上げる。毛むくもなかなかの力持ちで、抵抗するのをさらに肩を押し込んで封じ込める。毛むくが甲高い悲鳴をあげる。突き放すと、毛むくは両手を宙に泳がせてざまな恰好をした。見守る子分どもを、きっと睨みつける。到底かなわぬとみたのであろう、
「おぼいてやがれ」
捨て台詞を吐いて逃げ去った。
鬼の勝五郎、弱いものを苛めるとかならず天罰がくだるぞ。平兵衛は百姓を乗せて黙々荷車をひいた。勝五郎の悪行に、信太郎の肚は煮えくり返っているのだろう、やけにぐんぐん押してくる。

     二

奥州赤津藩十萬石領主赤津正興が、江戸御定府になる早々、江戸城のお堀の修復を命ぜられた。
赤津藩主の叔父で家老座上赤津甚左衛門が、国元舞鶴城で藩主代行を務めたが、五十を越えたあたりから、痰咳の持病が悪化して、登城が疎かになっていた。その隙孔を狙って、家老安藤源之丞が諸々の家老にすりより、財政の独占を謀り私欲を肥やしている。代官連中までこの安藤源之丞の機嫌をとって、今年の秋落ちから蚕種や繭糸に冥加銭を上乗せすることに賛同した。
赤津藩領九組代官高田平兵衛は代官会議でも身分が低く、いつも口数をひかえていたが、村巷の貧困をみかねていたので、
「昨年は、山瀬の風に中てられて作物は不作でござった。今もって百姓衆は糊口を凌いでおり、今秋とて豊作は望めませぬ。この時機、百姓衆にとって、唯一望みの御蚕にまで、冥加銭を上乗せするのは如何かと存じまする」
と、反論した。
代官連中は、いっせいに上座に居座る上役の顔色を見て取った。上役は取り澄ましているが、源之丞の側近と噂されている。
「そこまでは摂る必要もあるまいと申しておる」
平兵衛は、このときばかりは上気して反論に念を押した。しかものっそりして大きな身体には威圧があり存在感は十分だった。
このことが源之丞の耳に入り、数日後、平兵衛は奥の間に呼びつけられた。ときどきは源之丞を拝見するが、対座するのは始めてのことである。いい折りだ、村巷の苦しみをことごとく上申せねばならぬ。それにしても、いつまで待たせるつもりだ。正座の足もそろそろ辛くなったころ、廊下に囁く声がして、恰幅のある源之丞があらわれる。床の間を背に座に着き、平兵衛を見るなり脂ぎった額に縦皺をたて、見た目にも強欲な面構えに不機嫌を示し、
「江戸表の修復費を調達しなければならぬというこの一大事に、代官会議を惑わすとは何という不心得な発言。貴公は殿さまに恥をかかすつもりか」
野太い声だった。
「恐れ入りますが、不作が見込まれる秋落ちに、更に、蚕種、繭糸に冥加銭を上乗せすることになっては、百姓衆は命を削ることになりましょう」
「理屈では通らぬ事もあるのだ。藩が財に苦慮しておるときは、百姓にも耐え忍んでもらわにゃならぬ。政り事とは、ときには鬼にならねばならぬこともあるものじゃ」
「しかれども、領民が豊でこそ、赤津藩も安定して栄えるというもの。領民をないがしろにしては、藩の退歩になりかねまする」
平兵衛は懸命に百姓衆の貧困を訴えた。
「黙らっしゃい、口がすぎるぞ。貴公、誰にものを申しておる、全くもってけしからん」
源之丞の分厚い瞼に鋭い眼光、しばし平兵衛を睨め付ける。鼻尻の疣が醜く歪んでいる。
「貴公は、丑のような図体ばかりで思慮がたりぬ。しばらく登城を差し控えよ」
こうして平兵衛は謹慎を申し渡された。

侍屋敷の居並ぶ奥まった角地に、高田平兵衛は弟の信太郎と二人住い。何かといえば二十五歳になる平兵衛より、ひと回り違いの信太郎が利発で、両親が早世し、後見人の叔父高田善衛門まで、兄と弟が取り違ったと漏らしたらしい。平兵衛が縁遠いのは、のっそりが祟って出雲の神様に見放されていると、同僚から冷やかされてきたが、正しくそのとおり、何もかも器用に立ち回れない損な性分であった。役職柄いつも気になるのは、秋落ちの出来不出来ばかりであり、村巷を廻って日焼けの肌色を晒して、同僚からはのっそりの丑とからかわれていた。
それにしても謹慎はいつ解けるのであろう。無禄になり、通い端女に暇を取らせてからというもの、不器用な手つきで衣のほころびを縫い、流しに立ってきたが、すでに蓄えも底を突き、家財も売り捌いた。
侍屋敷の人陰の失せたところで、平兵衛はいつも、顔を隠した手拭をとる。身分を隠して左官の土練りで日銭を稼いてきたが、このごろ人目をはばかるのも無益なことに気づいていた。
足を洗って間もなくのこと、
「高田さまのお宅はこちらでしょうか」
姐さん被りの若い娘がたずねてきた。入り口に立って、周囲の侍屋敷を気にしているふうだ。
「さようだが」
招き入れると、平兵衛に笑顔をみせて、背負った駕籠をおろして被りを外した。
「旦那さま、和田村の名主弥左衛門の娘でございます」
髪を無造作にたばねて、いかにも百姓娘らしく洗いざらしの襟元から白い肌がのぞき、頬はほんのりと日焼けの初々しさをみせている。
秋落ちになると、平兵衛には藩領九組を見廻り検分し、名主たちと年貢の打ち合わせがある。和田村で休息するのが名主弥左衛門屋敷で、娘が膳をはこんでくる。その娘であるのにすぐに気がついて懐かしい思いがした。
「今年の実入りはどうだな」
うっかりいつものあいさつ癖が出て平兵衛は苦笑した。
「あまり、良くはございませんの」
駕籠の中には青菜と芋、それにわずかな米も忍ばせてある。娘は流しの隅に野菜物をかたづけて、上がり框に腰をおろした。男所帯の閑散とした内に、娘の匂いが漂いはなやいた気分である。 
「わしもな、失態をしでかして咎をうけておる、まあそのうち登城も許されるであろうがの」
 そういいながらも半年が過ぎて、思い出すと城内の鬼になるといった鬼奸臣には腹が立つ。
「旦那さまの事情はそれとなく伺っております。父がいうのには、百姓が難儀しているときに、旦那さまは何彼と百姓を庇ってくださいました。時が時だけに何か役に立って差し上げなければならないが、わしが出向いては世間の目も煩いであろうからと、代わりにわたしが忍んでまいりました」
「それはかたじけない。何もかも底を突いてしまっての。食い物のありがたさがしみじみと感じていたところじゃ。そこでは何だから、上がって茶でも飲んでくだされ。見てのとおり何もないがの」
「いいえ、秋は暮れるのが早ようございますので、ここでお暇を取らせていただきます」
娘は十四、五であろう、あどけない顔立ちに確りした物言いである。
「さようか。娘のひとり歩きはよくない、それでは信太郎に送らせよう。わしの弟でな、まもなく道場から戻るであろうから、それまで茶をいっぷく進ぜよう」
平兵衛は薬缶を手に取った。
「とんでもござりません。旦那さまに、そんなことまで」
と、いいながらも、娘は上がり框にかしこまって茶碗を手にしたが、口をつけずに肩をおとしている。
「困ったことでもあるのかな」 
「はい。また和田村の百姓が、またひとり村を去りました。そのことを思いだすと胸が切なくなります」
「村抜けか」
「いいえ、金堀人夫だそうです」
「山か。あそこは陽とは縁のない地の底で、百姓の行くところではない。咎人の行くところではないのか」
「娘さえ身を売って払う根性があんのに、大の男が払えねえことあるか、と脅しながら、高利貸し勝五郎の子分が、借金の方に無理に連れて行きました。勝五郎は不作をみこむと、百姓を巡って手付を施すのです。それが後に仇になるのです」
「勝五郎は偽善者なのか」 
「はい、鬼勝といわれて、毛虫のように嫌われております」
やはり村巷にも鬼がおったか。城内では鬼奸臣が百姓を泣かせ、郡部では鬼高利貸しが百姓に触手を伸ばしている。なんとも肚の虫が治まらぬ。
やがて、剣道着に竹刀を突き入れ担ぎ、信太郎が勢いよく帰ってきた。上がり框に見知らぬ娘がかしこまっているのを見て少々戸惑ったようすだ。娘に会釈をし、平兵衛と少し離れたところに正座して、娘をまじまじと見つめる。
「和田村の名主さんの好意じゃ」 
平兵衛が野菜物を目で指すと、食物には目が無い信太郎、一重の眼を輝かせる。こうして信太郎にひもじい思いをさせるのは、すべておのれの一本気が禍をしている。
「信太、娘を和田村まで送ってくれぬか」
村の稔りのようすを見て来い、そんなつもりだったが、信太郎は急にはにかんだ顔をし、娘は娘でちょっと頬を染める、ほんに若いとはいいものだ。
「それでは、送ってまいりましょう」
「夕食の準備まで戻ってくればよい、急ぐこともないぞ」
娘の空駕籠には返す品もなく、平兵衛はなんとも片付かない気持ちで二人を送り出した。

月がすっかり傾いて稜線にかかっている。平兵衛は膳に戻り、待ちきれずに冷めた汁をすすった。名主の屋敷に居座ったであろうが、酒などよばれて見苦しい真似をしているのではあるまいか。すでに桟を降ろす時刻である。
「兄上、只今もどりました」
只今も何もあるものか、何刻と心得る。
「飯はすんだのか」
平兵衛はちらりと信太郎をみた。眼ぶちを赤くして鼻息も荒く酒もよばれたようだ。布をかぶせた膳をすまなそうに見て平兵衛の膝元に正座した。
「兄上、きいてくれ」
真剣な眼差しである。
「おれ、百姓になる」
「おまえにはいつも難儀させて済まないと思っておるが、まさか貧に負けたのではあるまいな」
「負けるものか。負けやしないが、食物がなくちゃ生きられん。人さまのために作物をつくる百姓は偉いと思うよ。武士も商人もみな百姓の養い扶持じゃないか」
「そのとおりだの」
城内では百姓の有難さがわからぬ、百姓の骨の髄まで絞りよる参段だ。
「おいら、土の匂いがすきだし、草木の匂いも好きだ」
平兵衛はまじまじと信太郎をみた。綻びて色あせた袖口がきちんと繕うてあるし、胃臓も満ち足りたのであろう。気の利く娘だとおもっていたが、奴の仕業だ。
「登世が執拗に縫ってやるというものだからさ」
「なぬ。登世と申すのか、あの娘は……」
信太郎め、娘にひとめぼれしたか。何か落し物をしたような気分である。それとも、おのれの内職に気兼ねをしてのことではなかろうか。
「なあ、兄上。兄上もいっしょに百姓やろう」
「それでは先代に申し訳がたたぬし、藩も認めぬであろう」
いや、安藤源之丞のことだ、よろこんで禄を取り上げるに相違ない。城内の鬼どもがのさばるうちは、領民の苦しみは払拭できぬ。誰かが命をかけねばならぬのだ。そう決心すれば、なにも弟に空腹を我慢させてまで、武士である必要はないのだ。
「だれか、面倒見てくれるひとがおるかのう」
「おるともさ、兄上。和田村のはずれに空き家があるそうだぜ。名主の親父が、耕す土地ぐらい何とか面倒みさせてもらいてえと、真剣なまなざしで俺の手を握ってくれたぜ」
「そうじゃな、貧には見栄も外聞も勝てねもんな」
和田村の名主弥左衛門の世話で田畑を耕すことになって一年が過ぎている。

     三

晩飯もそこそこに信太郎は丸棒を削った。そんなことをしてまで根を詰めることないであろうと思うのだが、村の八幡神社に毎晩でかけてゆく。一途な気性も、おのれと似ているところがある。
「兄ちゃん、それじゃ行ってくるぜ」
仕上げた木刀を腰に差してとんと床を蹴った。
「ああ、無鉄砲なことするんじゃねえぞ」
すでに仕上がった木刀を残して立ったのは、おのれにも来いということなのであろう。
信太郎は百姓衆をあつめて剣術を教えて、いつかは勝五郎一家に対抗する気概であろうが、それが裏目に出やしないか心配の種で、平兵衛は草鞋を編みながら、ふっと溜息をつく。
秋虫が啼く肌冷えする晩である。
最後の草鞋を編み終えて藁屑を払い除けていると、騒がしく百姓衆が入り込んできた。肩を支えられているのは信太郎である。
それ見たことか、
「皆の衆、かたじけない」
平兵衛は礼をいいながらも、箒を払い、藁屑の始末し、前後を顧みぬ弟への憤りを鎮める。
信太郎は上がり框に胡坐を掻いて、兄の無視する態度に、弁解の言葉もない。気を利かした百姓衆が代わる代わる詫びをいれた。
「八幡神社に勝五郎一家が待ち伏せしておりましたんで。なんでも、みだりに集会せぬよう、お上から御触れがでたそうで。解散せねば、片っ端から引っ立てると脅しやがんで」
「信太さんは、木刀一本で突っ立ち、わしらを後ろに庇ってくれなすった。なんせ、ごろつきどもが、信太さんばかり攻めやがる。多勢にひとりじゃ勝てっこねえ。信太さんが危なねえと見たとき、わしらは夢中で飛びかかったさ。そしたら、ごろつきどもは悲鳴をあげて逃げ出しやがったんでさあ」
「わしら、思ったさ。皆で力を合わせりゃ、勝五郎一家なんか、恐っかねえことあるもんか」
百姓衆も傷をこさえて気が立っている。いまにも勝五郎一家に攻め込む勢いだ。
「のう、皆の衆。百姓が集まって剣術の稽古をしておっては、お上とて、百姓一揆を懸念するであろう。おそらく、奉行所に出向いた勝五郎めが吹聴したのであろうが、大ごとになってはいかん。ここは一番、辛抱しなけりゃならんのう」
平兵衛は城内の鬼を思い浮かべると、やはり辛抱が肝心と思う。
百姓衆が憤懣気に引き上げると、
「兄ちゃん、おらあ、泣き寝入りなんかするもんか」
信太郎は利かん気に悔し涙を浮かべる。
平兵衛は薬缶の湯を洗い桶に注ぎ、傷口を清めて晒しを裂き巻いて、
「死ぬほどの怪我でもないので、まあ薬にでもなればよいではないか」
信太郎の背をぽんとたたいた。

それより信太郎は名主の娘登世をどう思っているのだ。登世はよく煮物を入れた重箱包を抱えてきては、勝気な目をして信太郎と声高にはりあっている。落ち葉が転んでも可笑しい年頃だからしかたがないかと、おのれまでも一人笑いがでる始末。信太郎には剣術よりむつまじい暮らしがふさわしいのだが。
開け放された入り口からは、この時期としては涼しすぎる風が入り込む。この風は稲穂にゃよくない。そんな日の夕暮れ方。
「旦那さま、助けて」
登世がすばやく家のなかに入り込んで戸をたてた。眼をつりあげてふっくらとした胸元を波打たせ、白肌のうなじが怯えている。追いかけてくる乱れた足音が止まって、立て戸をどんどんと叩く。
「おい、ここに娘が逃げ込んだはずだがな。なんぼ夜だからっていったって星明かりがあらあなあ、見のがしゃしねえぞ」
脅しともとれるだみ声がする。
いったいどういうことだ。平兵衛が戸外に立つと、眼窩が窪んで頬の削げた鬼勝の手先といわれる弥蔵という男が、二人の手下を従いて虚勢をはっている。平兵衛をみて後退りをしながらも家の中に眼を配った。
「何のようだね」
「名主の娘がおるはずじゃがな」
「おる、それがどうした」
「よく訊けよ。娘の親父の弥左衛門はな。村を救うためとか何とかの口実で銭がほしいと、勝五郎親分に泣きついてきやがった。親分はな、気前がいいから一言で承諾したさ。そのあげくに余りある銭まで握らせたら、親父は何といったとおもう、娘が十六になったら、きっと恩を返しますと泣いたそうだぞ。それがだ、それがてめえのところの若造といちゃついて傷物にされちゃ、せっかくの善意がたまったもんでねえってことよ」
勝五郎は、奥州街道の宿場で高利貸をし、博徒の元締めもしている。お目こぼしにと、家老安藤源之丞に大枚を握らせ、挙句に苗字帯刀をせしめた強欲者であるとの噂がある。数年前から和田村にでいりし、善意とか情けとか言葉たくみに百姓から田畑を取り上げて財を増やし、やがての狙いは和田村を乗っ取るらしい。これも城内の鬼奸臣らが見ぬふりするからで、悪くどいのは上にいる。 
「まあ、信じられぬことだが、そういうことなら、わしが勝五郎親分に掛け合うので、待ってくれぬか。登世はいずれ信太の嫁になる娘だからな、わしもほっとくわけにはいかんでのう」
「なんだと、とんでもねえ話だ、親分が聞いたら只じゃすまねえぞ」
「このとおり、頼むから今夜のところは引き取ってくれまいか」
平兵衛が頭を下げる。
「偉そうな口の利き方をするが、親分に楯突けば、和田村を追ん出されるからな。承知の上でそれをぬかすか。今夜はどうしても娘を連れてこいとの親分のいいつけだから、そこを退いてくれや。そうか、どうしても退かねえならしかたがねえや」
脅しのつもりであろう、弥蔵は懐から匕首を抜いた。これを見せびらかせば堕ちるとでも思ったのだろうが、それで怯む平兵衛ではない。すっかり忘れられているが、平兵衛は小野派一刀流奥秘皆伝師範弟子取りの免許を受けている。鍬を握っていたとて鍛錬した肉体は忘れるものではない。
弥蔵が刃を向けて突いてくる。平兵衛は、はっ、と弥蔵の脇に身を入れると同時に小手を捻り上げ、引きずり落とす。勢い余った弥蔵が滑稽な恰好でつんのめる。肘肩を労わり立てぬらしい。見上げて、この丑が……と、半信半疑の眼差しをした。
ようすを見守っていた登世が平兵衛の後ろにしがみつき、いじらしく涙をこぼす。平兵衛が手拍きして埃を払い、
「これで、よろしいかな」
振り返ると、登世はまだ心配顔をくずしていない。
「屋敷では鬼勝が上がりこんで、父を脅しています。あたしはその隙をみて飛び出してきましたが、庚申塚のところで弥蔵の手下に捕まり、その手を噛み切って逃げてきました」
「それは面倒なことだの、信太が戻るまで待てぬかの」
信太郎は剣術の稽古が御法度なら、庚申溝と称して百姓衆を集めて何やら暗中模索しているらしい。
「庚申溝の寄り合いに出かけておるのだが、まもなく戻るであろう。それまでは油断ができん、家から出てはいかんぞ」
「……」
すでに短刀をにぎった弥蔵の姿も失せている。名主屋敷にでも逃げ込んだのであろう。
「わしがひとりで出かけよう、心配せんでもよいぞ」
いくたびか、登世は袖で涙をふいた。
「泣く奴があるか」
「さっき、旦那さまが信太さんの嫁にといわれたので、それが嬉しくて、つい……」
そんなこと、信太郎が百姓になるといい出した時から決まっておる。
「たったひとりの弟だがな、よろしく頼むぞ」
「でも、あたしは土臭い百姓娘です、お武家さまの嫁になれる身分ではございませんもの。信太さんに付いてこいといわれても、決心がつきかねます」
「武士にあいそが尽きて、わしらは百姓になったのだ。そのような心配無用じゃ。わしは出かけるので、おまえは信太とあとでくるがよい」
 平兵衛はなにげなく、信太郎のこさえた木刀をにぎって外に出た。
秋虫が一斉に啼きだしている。

     四

 星明かりに平兵衛の姿を見とめ、鬼勝の子分らしきが二、三人さっきから後を追ってくる。どうせ剣術修業のない連中が短刀を振り回しても高が知れたもの。颯爽と庚申塚を通り過ぎれば、やがて大欅が星天を被う。案の定、欅の陰からぬっと立ちふさがった奴がいる。そうか、ごろつきは見張り役で、本命はこの浪人か。北国あたりの脱藩者、城下をうろついて鬼勝の世話になったか。着流しの長身である。
「お晩です」
平兵衛は見ぬふりして通り過ぎようとする。
「待ちなされ、ここを通ることは罷り成らん」
浪人が行く手を遮った。名主屋敷に行くことを拒むのは、はやり屋敷に何かが起こっているからだ。
「おや、お武家さん、可笑しなことをいいますな。この道は天下のもの、わしがどこへ行こうとも遠慮することねえはずですがね」
「なるほど、もっともなことをいうじゃねえか、それじゃしかたがねえ、どうしても通るなら拙者を倒してから行くがよい」
「わしは百姓で立ち合いは苦手でございます、どうかご勘弁ねがいます」
「それじゃ、その腰の物はなんだな、八幡神社の境内で、おぬしも、やっ、とう、の口であろう」
浪人が嘲笑う。この腰の木刀には鬼勝への憎しみがこもっている。下卑するとは許しがたい。
「ご武家さま、百姓にも意地がございます。斬られようとも戻ることはできねえです」
「なんと、命知らずめ」
浪人が抜刀し、上段に構えると、平兵衛は瞬時に入り身して浪人の肘を押し上げ、膝頭で浪人の肋骨を突く。浪人が刀を手放し怯むすきに、浪人の両小手を大きくひねり円転して投げ飛ばす。一瞬の出来事だ。浪人は百姓を侮ったのだろう、地に這い、肋を押さえて呻き声をたてた。
「お武家さん。いくら貧に負けても人泣かせの片棒を担いちゃいけやせんぜ。その気になりゃ、道普請のもっこ担ぎでも、何でもありまさあ。それじゃ、ご免なすって」
食い入るように見つめる浪人を見捨て、平兵衛は息の乱れもなく、百姓は刀など使わぬぞ、先を急いた。
追っても無駄だ、奴はたしか小野流の師範で丑といわれ、城下では恐れられた偏屈ものだ。百姓に身を隠していたとは知らなんだ。浪人の無念がる声がする。
名主屋敷に入ると囲炉裏は炎をあげて燃え盛り、横座には鬼勝らしきが胡坐をかいて、隣には弥蔵がひっいて、和田村の名主弥左衛門と妻がかしこまっている。幼い家族たちは戸外にでも隠れているのであろう。おのれの来ることはすでに弥蔵の口から知っているはずだ。
鬼勝が平兵衛を見るなりにたりとした。小奴が鬼の勝五郎か、大柄な図体に獅子鼻、墨太の眉で眼玉が飛び出るほど大きく、狡賢さが目立つ顔立ちをしている。
「ほほう、のっそり丑のおでましか、ちょうどよかったわい。いま弥左衛門がな、名主職をおれに譲与してくれると判を押したところだわ。せっかくのところだから立会いを頼むわ」
酒焼けの声ながら猫なで声の鬼勝である。すでに遅かった。平兵衛が上がり框にでんと腰をすえると、その気骨なかまえに鬼勝が気後れしたようすだ。すかさず弥左衛門に、
「そうだもんな、弥左衛門さん」
弥左衛門が首を折る。妻があわてて、
「騙されました」
声をふりしぼると、鬼勝はあわてて証文を引き寄せて胡散臭い。
「名主さん、わけを聞かせてくれませんかね」
それによっては容赦できないこともある。
弥左衛門は鬼勝の仕返しを恐れて躊躇したが、やがて意を決して口をひらいた。
「見苦しいところをお目にかけて申し訳ござりません。じつは、留吉という若者がおりまして、寝たきりの母親に最後の親孝行をしたいからと、城下の町医者をたのみました。一時は快復に向ったんでしたが、とうとう叶わずじまい。そのとき薬料とか診立料とかで大金がかさんで、留吉は勝五郎親分さんから一両を借り受けました。働き者の留吉だからと思いまして、わしが保証人になりました。その一両がいつのまにか十両の大金に化けておりました」
金銭になると突然、鬼勝が横車を押す。
「やい、まてや、化けたとはなんだな、化けたとは。おれはな、もったいなくもお上の許しをいただいて、金貸しで暮らしておるんじゃ。このように、親分、親分と慕ってくる子分たちの食い扶持も面倒見にゃならねえ。借りるときはお多福さまで、いざ返してくれと催促すりゃ、まるで般若でねえか。何も命まで引き換えにしろとはいわねえ。名主職をおれに譲って、娘がおれの世話をしてくれれば、穏便に治まるということよ」
鬼勝は大黒柱をじろりと見て、証文を平兵衛に見せびらかす。この屋敷ごと我がものにしたいのであろう、しかし、こんな鬼勝にも蛆のような子分がわんさといる。銭の力とは恐ろしいものだ。
「ところで留吉はどうしたね」
その張本人の姿が出てこない。
弥左衛門が怒りを抑えて唇をふるわす。
「へっ、留吉が申すには、人さまに迷惑はかけられねえので、田畑と借金を帳消しにいたしやした。今晩から寝る所もねえので、名主さんところの作男にしてくだせえ、と願われましたのがひと月まえのはなしです。あれから、ばったりと留吉の姿が見えません。留吉の家に行って見ますと、すでに勝五郎一家のものになっておりまして、田畑はよそ者が耕しておりました。留吉の消息はいまだに知れず、ほんに解せないことばかりです」
「それじゃ、借りは、その日に返したのだな」
「そのとおりです、旦那さま」
と、鬼勝に疑いの眼差しをむける。
「おい、おい、何度もいわすなよ。おれはな、もったいなくもお上の許可で、金貸しの商売しておるのじゃ。そりゃ留吉から田畑と家はもらったさ。しかしだな、おらは利息で暮らしておるんだ。善意じゃ生きておれんのじゃぞ」
何かが狂っているのは法外な利子が踊っていることであろう。このままでは弥左衛門は根こそぎ奪われてしまう、しかも愛娘までも。
「承知した、それではその利子は平兵衛が何とかいたしやしょう」
そう見栄を張ってみたものの、目当ての金子があるわけでもない。

     五 

ただひとつそれは家宝の脇差を処分すことにある。
「兄ちゃん、登世のことならおらが働いて何とかするから、刀を手放すことだけはやめてくれ」
この脇差は平兵衛兄弟の父親で年貢取立役高田平右衛門が山川村の水田を開発したとき、先代の領主正照公から尽力を認められて賜った脇差である。もしや鬼奸臣が改心すれば高田家再興の一抹の望みをもつ脇差で、未練がないわけではない。その思いは信太郎とて同じであろう。
「おいらはともかくも、兄ちゃんの行く先までおれが奪ってしまうことはできねえ」
「百姓に刀など何の役に立つものではない。刀など持っていても、人の苦しみにかえられめえ。信太が幸せならわしは刀などちっとも惜しくはねえぞ、本望だわ」
「兄ちゃん……」
「謝るのはわしのほうだ。本来なら高田家の次男坊として何不自由のない暮らしをさせて、どこぞの婿養子にでも納まるものを」
おのれの意固地でこうして辛い目をさせておる。
「やめてくれよ。兄ちゃんの考えなんか間違っておるもんか、悪いのは鬼勝だ」
信太郎はふいに立ち上がると、脇差を腰に差して人字に構えてみせる。ほほう、いつの間にかこんなにも逞しくなった。褒めてやりたいくらいだ。
「どうだ、兄ちゃん」
「おお、なかなか凛々しいぞ、信太」
「こんどは兄ちゃんが差してみろ」
「わしはいいぞ」
信太郎の執拗さに負けて平兵衛が脇差を差してみる。脇差は腰に重く城勤の緊張が遠くに想い出されて、いまでは気恥ずかしい気もする。
「やっぱり、兄ちゃんはその姿が似合ってらあ」
見ることも知ることもなかった両親を想い出したのだろう、信太郎は大粒の涙をこぼしている。

翌日、平兵衛が城下町に入ると、すでに陽は城山の陰になり、城壁が闇に暮れはじめていた。袋に入れた脇差を肩掛けに背負い、頬被りをし、洗いざらしのくすんだ袷をまとい、見た目は紛れもない百姓である。すでに下城の時刻だが、行き交う武士も町人も百姓平兵衛に気づくものは誰もいない。遠まわりして武家屋敷に近づくと、そこは賄賂が絡んだ陰湿な日常があるのを思い出し、後悔の念を振り切りながら歩をはこぶ。たしか質屋は小野道場を曲がって龍水寺の門前のあたりであったが。家並み、大店には明りが灯って街の繁盛はこれからであろう。箪笥職人や下駄職人の看板をたどって質屋の暖簾の陰にたたずんでいると、
「もしや……」
声をかけられた。はて、聞き覚えのある声だが、
「へえ」
振り向いて眼を合わせると、羽織袴の武士が立っている。
「高田平兵衛どのではござらんか」
小野道場の昔の仲間の村上健次郎であるのにすぐ気がついた。健次郎は平兵衛と同じく小野派一刀流奥秘皆伝師範弟子取りの免許を受けて、腕は平兵衛と互角ではないかと噂されていた。健次郎は道場に残って剣術の指南しておったが、いまの暮らしは知る由もない。懐かしい思いで、おのれが百姓であることをつい忘れていた。
「すぐにわかったぞ、この身体だもの」
健次郎は、平兵衛の足先から見回したが、根掘り葉掘り仔細なことを訊くようなことはしない、事情は察しているはずだ。質屋の前にたたずむなど、よくよくのことと思ったか、温かい眼差しである。健次郎とはそういう奴だ。
「どうだな、道場に立ちよらぬか」
城下を徘徊するのは見練まがしく見苦しい。
「いや、なあに、このごろは百姓が板についたでな。これは必要ないので手放しにきたのだ」
脇差をちょっと引き込める。刀は武士にとって魂にもひとしい、奴だってそれを信じているはずだ。
「刀を……。そうか、それじゃ、その刀は拙者に預けてくださらぬか。悪いようにはいたさぬ」
家宝の脇差が見知らぬ者の手にわたるなら、互いに汗を流した男の手に委ねることにこしたことはない、これは願ってもないことだ。
脇差は質屋に預けて平兵衛が金子をうけとり、後に健次郎がその脇差の請け人となる約束を質屋の主人にとりつける。
「出会いなんて可笑しなものだのう」
帰り際、健次郎は笑うが、おかげでおのれはいくぶん安堵する。こうなると急がねばならぬのが、名主弥左衛門の支払いである。
暇をいう間もなく健次郎が語りかけてくる、昔が懐かしいのであろう。
「拙者はときおり獄舎の見廻りをしておるのだが、獄舎には不可解なことが起こっておる。こんど幾人かの咎人百姓が、江戸の小伝馬町獄舎送りになるそうだ。騙りとか恐喝だそうだが実際はわからぬ。百姓一揆などを企てた咎かもしれぬのう。おぬしは和田村とかいったな。和田村も目をつけられておる、気をつけなされ」
「もしや、和田村百姓留吉といわなかったかな」
平兵衛に思い当たる節がある、鬼勝ならやりそうなことだ。百姓が弁明しても牢役など、所詮、戯言と片付けてしまうのであろう。
「名は知らぬが、よければ調べて進ぜよう」
「すまぬのう」
健次郎ぐらいの器量ともなれば、城内の鬼奸臣のことなどすでに感づいておるはずだが、口に出せば禍が降りかかる。見ぬ振りも切ないことなのだ。
「なんとも暮らし難い世の中でござるのう。それにしても、赤津藩にとっても惜しい男だ、平兵衛どのは……」
最後の言葉は聞かなかったことにする。肩の荷も降ろして、平兵衛はこれで真っ向の百姓である。

村上健次郎の見送りをうけながら平兵衛は城下をはなれた。
民家も途絶えて狐坂峠を越えると林の中は下り道がつづく。道々、星明りで見通せられる。はて、何事であろう。ぜいぜいと息を弾ませて人影が駆け上ってくる。
「丑さんだな。先日助けていただいた百姓でごぜえますが大変な事態になりやした。勝五郎一家が名主弥左衛門を追い出して名主屋敷に居座っておりやす。それに怒った百姓衆が決起して屋敷を取り囲んでいやす。兄貴が城下に出かけているから報せてくれと、信太さんに頼まれやしてこうして駆けてめえりゃした」
信太郎の奴、とうとうやりやがったな。こうして金子も工面できたことだし、百姓衆を扇動して手荒なまねをしなければよいが。
「急がねばならぬな」
平兵衛は百姓を従えて歩度をはやめた。

     六

その頃、名主屋敷には勝五郎一家が上がりこんでいた。家の前にかがり火を焚いて百姓衆を警戒する一方、鬼勝は囲炉裏に炭火を熾し、横座にでんと腰をおろして弥蔵たち子分をはべらかして、
「どうだ弥左衛門、あんとき丑はでかい口抜かしたが、打出の小槌でもあんめえし、天から小判なんか降ってくるかよ、約束どおり娘と屋敷は貰い受けたぞ、文句あるなら奉行所にでもどこにでも出てもらおうでねえか」
弥左衛門を戸外に突き放して、登世を手元に引き寄せて酒盛りをはじめていた。
「どうした娘、注がねえか」
鬼勝はぐいと茶碗をからにして突き出す。しかたなく徳利を傾ける登世だが、憎しみと恐怖で手が震えている。
「どうした。鬼勝が恐ろしいか、時に従えば情が移るってことよ。それにな、銭さえ積めば、赤津藩の役人たちまでがへこへこしやがる。今や天下はおれのもんだ。娘よ、今夜からうんと可愛がってやるからな」
逃げようとする登世の手をぐいと引き寄せる鬼勝の顔が、炭火の照り返しで赤々と脂ぎった。
「鬼の慰みにされてたまるものですか」
勢いよく手を払った弾みに徳利が転げると、酒が炭火にはじけて灰塵がとびはねる。
「ほほう、それもまた可愛いというもんだ」
猫がねずみを嬲るような眼差しである。
きっと眼を据えて、登世は乱れた襟元を正した。
「手篭めにされるくらいなら、舌を噛み切って死んでみせます」
「なに、てめえ本気でそんなこと考えてんのか。せっかくの玉だ、そうやすやすと死なせてたまるか。おいてめえら、娘に猿轡をして縛っておけや、改心するまで蔵の中にでも放り込んでおけや」
戸外が、やあやあと騒がしくなった。信太郎を先頭に百姓衆がかけつけてきたのである。
「やい、鬼勝。登世を取り返しにきたぞ」
信太郎を先頭に百姓衆が門前で気勢をあげると、浪人たちが立ちはだかった。
「何をほざいておる。何もかも穏便にすんで、ここはすでに勝五郎一家の御屋敷だ、引き取りなされ。さもなければ、百姓一揆と、奉行所に訴えますぞ」
浪人が取り鎮めようとするが百姓衆に聞く耳はない。信太郎は木刀を片手に意を決し進み出る。弥蔵が立ちふさがり浪人たちがとりかこむ。百姓衆が鎌や棒をかまえて、やあやあと憤懣は破裂寸前である。信太郎が仁王立ちすると相手が抜刀する。信太郎が正眼捨て身の構えで立つ。浪人が切り込む瞬間、信太郎が横に飛び小手をぴしゃりと打つ。体勢を立て直す間に、二人目の浪人の太刀風を腕に受ける。見かねた百姓衆が蜂群のように浪人と子分たちに襲い掛かった。
そこへ平兵衛が駆け込んできたのである。
「信太、大丈夫か」
破れた袖に血が滲んでいる。
「おらより兄ちゃん。弥左衛門さんが追ん出されて、内には登世が捕まっている」
「そうか、鬼勝はわしが決りをつけるから、百姓衆に傷を負わせちゃならんぞ」
たしなめて屋敷にはいると、鬼勝が子分たちと囲炉裏を囲んでふざけあい、祝い酒をあおっていた。
「勝五郎さん、この騒ぎは何の真似です」
鬼勝が振り向いて大きな眼を剥いた。
「丑、もう手遅れだわ。弥左衛門が承諾して屋敷を出て行きなされたわ」
平兵衛はつかつかと進み、鬼勝の前に金子を差しだした。
「約束したのは弥左衛門さんでなく、このわしですぞ。こうして金子を用立てしたからには、潔く出て行きなされ」
「いまさら手遅れだっていったでねえか。金子などいらねえから、さっさと帰えんな」
「それでは勝五郎さん、人の道にはずれますぞ。おめえさんにも親はあるはず、うぬが親は子の悪行に、泣いてますぞ」
「なんだ、説教か。流れ、流れて、今じゃ泣く子も黙る鬼勝といわれ、身代も一代で造いたのよ。仏心ばかりじゃこうはいくめえ。それになんだ、おれの親だと、辛いことを訊くでねえか。おれには親なんかあるもんか、おれはな、木の又から産まれたのよ。この世は憎くて、辛くてたまりゃせんだったが、今じゃ、楽しくて、愉快でたまらんのだ」
丑のような力で平兵衛はぐいと鬼勝の胸倉を掴んだ。
「どうして、人の苦しみや悲しみがわからぬ」
余りの非道に情けなく、ぐいぐいと力を込めた。
戸外では百姓衆が梯子、棒、鎌をつかって浪人を押さえこむ。子分たちはこそこそと裏口から逃げ出す始末。乱闘が鎮まると、裏庭の離れ座敷あたりから黒煙が立ちのぼり、茅ぶき屋根はまたたくまに火の粉を振り撒いて火炎があがる。
「兄ちゃん、勝五郎の子分が火をつけやがった。はやく逃げねえとこっちがあぶねえぜ」
信太郎が駆け込んできた。
すでに居間も煙っている。
平兵衛は慢心の力をこめて鬼勝の首を締め上げる。
「やめろ、やめんか、苦しい」
「鬼勝、苦しいか、苦しめ。こうしておまえは何人苦しめた」
「とてもじゃねえが、数え切れるもんでねえ」
「達平を、留吉をどこにやった、登世はどこにいる」
「達平は山に売った、留吉は牢に入れた、登世は、蔵ん中……」
「信太、登世は蔵の中におる。救い出したら百姓衆ともどもかくまってやれ。決して、ここへ戻ってくるんじゃねぞ、鬼勝はわしが始末する」
「兄ちゃん、まさか死ぬ覚悟じゃあるめえな。兄ちゃんにもしものことがあったら、おいらも命をかけるぜ」
すがりつく信太郎を、
「わしは大丈夫だから、はやく行け。百姓衆に危ねえまねをさせてはいかん」
突き放すと、信太郎はたっと飛び出す。
「信太、戻るんじゃねえぞ」
平兵衛は木刀を信太郎とおもい手元に引き寄せる。
すでに火玉がぼたぼたと落ちて煙が充満している。音が響き、屋根裏が落ちたようだ。
平兵衛の手がゆるむと、此のときとばかりに鬼勝は屋敷の奥に逃げ込むが、そこはすでに焔が充満して、鬼勝の胸肌を焼く。後ずさりをし、気が触れんばかりに喚き散らして次の座敷とさ迷う。はっと外に眼を向けると、突然、天井から焔が落ちて頭上が焼かれる。鬼勝は平兵衛の足元に転がり込んだ。
「旦那、命がほしい。金子ならいくらでもだす。いくら欲しい。十両か、二十両か。許してくれ、助けてくれ」
「この野郎、この場に及んでまだ銭にすがるか、許さぬ。うぬは閻魔地獄に堕ちたのだ。地獄をさ迷い、鬼子の火責めで苦しむがよい」
火玉が激しく落ちるなか、平兵衛は鬼勝を突き放し、腕を組んで胡坐をかいて瞑目した。すでに覚悟を決めている。
「息が詰まりそうだ、苦しい、助けてくれ、助けて……」
鬼勝は、両手で眼を塞ぎ、耳を塞ぎ、泣き喚く。まさにあたりは赤々とした灼熱が肌肉を焼いて阿鼻地獄絵図である。
「恐ろしいか、苦しいか。その苦しみで、うぬは弱い者を泣かせてきたのだ。その苦しみをじっくり味わうがよい。逃げ出せばわしが押さえる。百姓は刀など使わぬぞ、わしの命ひとつで百姓衆は泣かずにすむのだ」
勝五郎は、上を仰ぎ絶叫し、額を床に摺り寄せてもがいたが、ふと、正気を取り戻した。
「ああ、閻魔の怒りとはこれかの。おれが悪かった。旦那、なにもおれの道づれなるこったねえ。おれが逃げださねえよう、土間の荒縄で大黒柱に括りつけ、さっさと逃げてくんな。それから、たったひとつの頼みがござんす、旦那。おれには幾分かの財があるんだが、すべて貧しい者に分け与えておくんなさい。勝五郎、これが最後の罪滅ぼしでござんす……」
意識を失い崩れこむ勝五郎を、平兵衛はぐいと担ぎあげて炎の壁を突き破った。
後日、和田村に勝五郎の姿を見ることはなかった。江戸に上ったとの噂だが誰も知る由もない。

     七

稲の収穫を目前に、村々の名主一同が冥加減を嘆願するらしいがやはり見こみがない。鬼奸臣が、示しがつかぬと、聞き捨てたのであろう。秋晴に恵まれても百姓衆の胸中には冷たい北風が吹き荒れている。
寒風が裸木を泣かせる晩飯時、托鉢の僧侶が入口に立った。読経に驚きながらも箸を置いて信太郎が土間に飛び降りた。
「高田平兵衛どののお居いは、こちらでござるかな」
はい、と信太郎が戸を開けると、傘で仔細顔を隠した僧侶が静かに礼をした。風に衣の袖が翻る。さてこの時刻に何事であろう、まさか托鉢の糧が足りなかったのでもあるまい。平兵衛が草履を突っかけた。
「平兵衛どのはご在宅かな」
「わしですがの」
「左様ですか。それでは用件だけを申します。明朝、丑三つの刻に城下外れの満願寺までおいで願いませぬか。もし意を受けてくださるなら、居宅には戻らぬ覚悟で。これは赤津藩の一大事なので、他言なさらぬように」
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、僧侶は両手をあわせてふかぶかと頭をさげて姿を消した。一瞬の出来事に、ふたりは呆然と顔をみあわせた。
「兄ちゃん、丑三つの刻といったぜ」
丑三つの刻といえば、草木も眠る丑三つ刻、信太郎が怯えた。
満願寺とは奥まった山里。
「赤津藩の一大事ともいったな」
そうとなれば見捨てるわけにはいかぬであろう。
「ここには戻らぬ覚悟ってもいったぜ、兄ちゃんが行くならおいらも連れて行ってくれよ」
「覚悟で参られよともいったの。わしにもしものことがあれば、信太が高田家の家督を継がねばならん。次男とはそういう定めにあるものだ」
「兄ちゃん……」
信太郎が童子のように抱きついてきた。肉親に甘えるのもこれが最後であろう。血を分けた温もりを平兵衛はしっかりと抱きとめる。
漆黒の闇のなか、向かい風にはばまれながら狂ったように丑が疾走する。信太郎の奴、ちゃんと草鞋を揃えてくれやがった。後ろ手に戸を閉める辛さ、何かが起こる不安に苛まれて先を急がずにはいられない。
仄かに灯っている満願寺を見ていくぶん落ちつきを取り戻した。庫裏戸に手をかけると音もなく開く。すべるように入り込むと、
「お待ちしておりましたぞ」
住職が出向かいて、油灯で足元を灯しながら次の間にとおされた。さらに住職が板戸をひくと、闇を背に姿勢を正した宗十郎頭巾の御仁が座って平兵衛を見据えている。
「高田平兵衛にござります」
正座して平伏する。
「近こう寄りなされ。どうじゃ、この脇差に見覚えはござらぬかな」
平兵衛は膝行して、はっと腰を据えた。それは確かに質屋に持ち込んだあのときの脇差に相違ないが、もしかして村上健次郎の謀りであろうか。さて、この御仁はどなたであろう、住職に口止めされておるので聞くわけにはいかぬ。
「以前は、拙者どもの物でござりましたが」
「この脇差を手にしたときに、ふとおぬしを思い出したのじゃ」
宗十郎頭巾の眼光は鋭く、声色に淀みもない。
「猫は年老いると肥え太り、尾が二つにわかれてよく化けるといわれておる。人の足に擦りより危害を及ぼすらしい、猫又というそうだ。実を申すと……。十五、六年前のころであったかのう。舞鶴城に猫又が棲みついての。猫又は金子に摂りつかれて領民が貧困に苦しんだことがある。その猫又を葬ったのがそなたの父上高田平右衛門どのであったぞ。それで先代の領主正照公から褒美に賜ったのがこの脇差と覚えておる」
それは新田の開発の尽力と聞いておったが……。平兵衛の怪訝な面立ちに、
「そのとおりなのです。そなたの両親は、そのときの生き残り奸臣の逆恨みに遭って命を絶たれたのですよ」
無表情に住職がたしなめる。
父親は事故死、母親は産後の患いと聞かされてきたが、これが真実とすれば余りにも哀れな両親の最後。平兵衛は慄然として悲しみさえ湧き上がらぬ。
「赤津藩も正照公が死去され、正興公に代わって、すでに十五、六年。また城に猫又が棲みついての。同類を増やし、横暴を振舞い、私腹を肥やしておる。猫又は病弱の家老座上を排毀し、その跡目を狙い、本日江戸表にたつ。物見遊山、ひと月の滞在らしいが家老座上職承継取得の心算であろう」
筋書きを暗証したように宗十郎頭巾の声色に起伏の感情がない。
「猫又はぜひとも退治せねばならぬ。引き受けてくれぬか」
この宗十郎頭巾はどなたであろう。藩の要職を思い浮かべる。まさか、大目付樽井織部さまではあるまいか、確かめるにはあまりにも薄明かりである。
「奸臣は領民を泣かせ、奸臣が親の敵となれば、親の無念をはらすのが子息の甲斐性かと存じます」
平兵衛は毅然といい切った。
「但し、表沙汰になれば赤津藩が御取り潰しになるやもしれぬ一大事。この仇討ちは赤津藩にとって一切関わりのないこと、十分に心得よ」
家老座上ともなれば上り詰める最後の坂。家老にとっては喉から手の出るほど欲しい座。城内では村巷の嘆願など煩わしく、家老座上騒動が起こっているのであろう。
すでに次の間に道中羽織が調達されて、金子三十両、その上に油紙が折りたたまれている。広げてみると、
赤津藩家老
『故、安藤源之丞』
力強い筆跡が走っている。重たい密命である。分厚い瞼に鋭い眼光、醜い鼻尻の疣、金肥りの猫又の容貌を脳裏に刻む。素早く旅支度をおえて力強く脇差に手を添える。それでは父上、参りましょう。

東雲が白んできた。昨夜の寒風も治まり霜柱を踏んで歩んだ。江戸までの道程は七日余り、立ち並ぶ石仏をすぎると奥州街道。
「平兵衛」
後ろから呼び止められた。驚いたことに叔父高田善衛門の声である。立ちどまるが振り向きはしない。なぜだ、なぜ善衛門がここにおる。おのれの通るのを待っていたようすだ。
「平兵衛、わしは身内ながら何もしてやれぬ、許せよ」
善衛門はおのれの親の無念、そしてこの密命、すべてご存知なのであろう、訊きたいことが込み上げる。しかし、ここに善衛門が待つということは、宗十郎頭巾の言葉には真実が含んでいる。訊いてどうなる、善衛門のような下級武士の口出しできることではない。
「待て、平兵衛、これだけは訊いてくれ」
平兵衛は毅然として振り向きもしない。
「信太郎は子の持たぬわしが面倒を見る。それから、高田家の再興もありうることだ……」
善衛門の声は涙に濡れている。
平兵衛はかすかに頭を垂れて礼を示し、先を急いた。
野鳥が羽ばたいて啼きだしている。輝く朝日が湿った心をつつんでくれた。

(百姓侍 了)


福島県文学賞六十周年記念特集号(小説部門 奨励賞)
平成二十年三月三十一日発行