八丁目宿
松川町文化財保存会の資料をもとに、旧奥州街道にあった八丁目宿のことを調べてみました。
お馬や駕籠(かご)、徒歩でてくてく歩いてお江戸まで行く参勤交代の際、お殿様も泊まった八丁目宿。
お宿代にお食事代、その他雑費に遊興費などなど、経済活動も活発でとても賑わったこの地ではたくさんの文化人も輩出したようです。
当時のわいわいと活気にあふれた様子に想いを馳せてみませんか。
グーグルマップの青いルートの始点と終点には口留番所といわれる小さな関所があり、旅人の検査・検品が行われていたようです。
当時どのくらいの宿屋があったかというと、幕末時点で約60軒(屋号数、諸説あり)。ドラクエの村だとかなりカオスってる状況です。道具屋を探すのが大変。薬草が欲しいだけなのに。
そのなかでも八丁目宿本陣はお大名様やお公家様、旗本様などのVIP用のお宿で、お屋敷の広さは3000坪もあったそう。現在の旅館建設の坪単価を130万円として計算すると39億円!スケールの大きさが違います。
記録では、松前藩(北海道)に仙台藩、津軽藩など12藩の皆様が宿泊し、多くは前日の宿泊地の桑折からおいでになり、次の宿泊地は本宮だったとのこと。江戸幕府も大変なことをさせたものです。
今回調べた八丁目宿は江戸時代の第二次八丁目宿。ということは第一次もあるわけで、第一次八丁目宿は宿地千軒(千軒は沢山あるという意味の当時の表現方法)といわれ、1189年に源頼朝が奥州征伐の際に兵火で焼き払ったと伝えられています。そもそも第二次とは場所が違うようで、現在の古天神・宿地・本西あたりの東西1kmの地のようです(グーグルマップを拡大すると地名が出てきます)。西郷の夫婦桜にもゆかりがあります。